排除すること、棄て去ること

「内包社会から排除社会へ」。フーコーの「死の中に廃棄する」という言葉を思い出す。あるいは「自己責任」という言葉。

ジグムント・バウマンは次のように自問する。シングル・マザーとアルコール中毒者、あるいは不法移民と学校中退者といったような、はなはだしく異質で多様な人びとの集合を〔「アンダークラス」という言葉で〕ひと括りにして捉えるということはどういうことなのか?と。この多様な人びとを眺めてみるとそこに含意された一つの特性が浮上する。それは彼らが「完全に無用(tottally useless)」ということである。つまり、彼らは、「その存在がなければ麗しい風景のシミ」であり、「彼らがいなくても誰も損をしない」というニュアンスである。しかしその危険はかつてのように、<社会>が負担を負うべきリスク・ファクターなのではない。述べたように、資本の観点から捉えるならば、それは<社会的>装置を通してふたたび労働力商品化すべき「労働予備軍」として自らの運動のうちに包摂しうるような人口の一部門なのではない。彼らは労働力商品としてはムダなのである。バウマンはいう。人間の歴史上はじめて、「貧民は社会的な有用性を喪失した」
だがそれは資本主義のはらむ欠陥・困難としては把握されない。(…略…)
ネオリベラリズムは、福祉国家的理念やケインズ主義を特徴づける社会保険や社会化するリスク管理の形態を拒絶して、リスクを個人化することで「個人を責任主体に形成し、競争の促進や市場モデルを通して統治するよう追求する」。脱工業化のもたらす半永続的な失業人口は、かくして<社会>の引き受けるべき課題ではなく、彼ら自身の性向の問題に還元されるわけである。
酒井隆史『自由論』、p.286