原田曜平『近頃の若者はなぜダメなのか 携帯世代と「新村社会」』

内容の要約;

若者(現在10代〜20代後半くらいまでの、「携帯電話世代」)の関係性は、「空気を読む」ことが最も重要な「新村社会」とでも呼ぶべきものになっている。その原因として考えられるのが、ケータイメールの普及やSNSの流行などによる人間関係のネットワークの拡大・細密化である。若者は新村社会で「村八部」にならないよう、つねに空気を読み、コミュニケーションに忙しい。
最近の若者の「草食化」や、消費意欲の減退は、ネットの中の膨大な情報に触れて自分で実際に体験する前にものごとに食傷してしまうというところに要因を求められる。そのようにネットによって狭い行動範囲や興味の中にちぢこまってしまう若者がいる一方で、ケータイやwebを利用して、以前の時代では考えられないほどに関係のネットワークを広げ、その「つながり」の中で助け合ったり、クリエイションをしている若者もいる。
 ケータイを悪者扱いしたり、今日の若者を嘆いたりする言説は多いが、悪い面ばかりが強調されてしまっている。若者のことを知ることが重要なのではないか。それはひいては世代だけでなく、時代を知ることにもつながる。

背景、意図;

「近頃の若者はわからない」という声がしばしば聞かれる。著者は広告代理店で若者を研究しており、本書は非−「ケータイネイティヴ世代」である30代以上に向けて、若者を理解する助けになることを狙いに書かれている。そのため、本書は今の日本の若者論に支配的な「反若者」vs「反−反若者」という不毛な世代間闘争のどちらかに加担するのではなく、中立的に著者がフィールドワークを通して知った若者の実態を語っている、とされている。

考察;

挑発的?なタイトルはさすが著者が広告系なだけあっての売るためのあえてのミスリードで、中身は意外にあからさまに反若者的なものではなかった。本書で言われている「若者」とはケータイ・ネイティヴ世代のことであり、著者はケータイ文化の登場・発展が、若者と非若者ネイティヴ世代と非ネイティヴ世代の間にある種の大きな相互不理解のある要因であるとしている。ここでは特に著者の「新村社会」論、つまり若者の間でのコミュニケーションの変容について論じていることに注目して考察を進めていく。
著者によれば、ケータイやSNSなどのコミュニケーション・ツールの発達によってもたらされたコミュニケーションの増大、関係の拡大―過剰―が、ひとつひとつの関係を薄くしてしまったことにより、「キャラクター」などの記号を媒介とした表面的なコミュニケーションが主流になった。そのコミュニケーションでは、その場を楽しくやりすごすことが絶対化し、結果「空気を読むこと」が非常に重要な「新村社会」になっている。これは北田暁大が「つながりの社会性」と名指した現象に関しての議論の縮小反復版であり、退屈ではあるものの、とりたてて反論すべきところは見当たらないように思える。

ここに私なりの視点を付け加えるならば「若者」の「つながり」は実は大きくふたつに分けられるのではないか、ということである。ひとつめは、「消極的」なものである。著者が若者に聞き取り調査をした際の関係や、「若者はだめだ」という言説が生まれる職場でのつきあい、学校におけるクラスメイトなどとのつきあいがこれにあたり、とりあえず「つながっておく必要」があるからコミュニケーションをしている際のものである。
もうひとつは、趣味や楽しみなどの「ネタ」を共有した集団の間での「積極的」なものである。「島宇宙」や「タコツボ」などと呼ばれるものはこれにあたる。ライフスタイルやエンタテイメントが多様化し、もはや誰とでも共有できる「ネタ」がなくなった以上、このふたつの分化は必然である。「消極的」なつながりでは、各自がキャラクターを演じ、その場の空気を読み合いながら温めていくことが主題化していき、「積極的」なつながりでは、狭い関心の空間で相互に承認を与えることが主題になっていく。
本書で取り上げられているコミュニケーションの変容の例は、すべて「消極的」なつながりに関するものである。著者が言う「新村社会」というのは、ある程度の出入りの不自由さを前提としており、それ故に「村八分」を恐れて読空術もキャラ演技も過剰になるのだが、「島宇宙」は出入り自由であるためそれがない(あるいは弱い)。島宇宙島宇宙で問題があることは間違いないが、若者のつながりがすべて新村社会であるという風に紹介してしまうのはいかがなものだろう。表面的でしばしば窮屈な「消極的」なつながりだけでなく、もう少しディープな「積極的」なつながりがあるのだということも、注意すべきではないかと思う。