「QF」から「存在論的」へ

twitterがあるとやはりブログの更新頻度は下がりますね。もともと僕はあまり長い文章を書かないので、だいたいがtwitterで事足りてしまいます。
さて、東大駒場で行われた「『クォンタム・ファミリーズ』から『存在論的、郵便的』へ──東浩紀の11年間と哲学」へに行って参りました。
特に印象的だったのは、
・「人間はキャラクターの下位概念である」
・「愛は萌えの下位概念である」
あとはQFの謎がいくつか明らかに。
千葉雅也さんと東さんの喋り方があまりにも違って面白い。思想地図勢はどうしてああも皆早口で声が高いのか。声だけ聴いていたら、千葉さんのほうがずっと年上に思えるのだ。先日の朝生を見ていても同様のことを思う。姜尚中が話している間は、誰もしゃべってはならないという不文律があるかのようだった。低い声と落ち着いた話し方のコンボの制圧力は圧倒的であることが、このハイパー姜尚中タイムから一目瞭然である。あずまん、はまのんも見習って欲しい。

原田曜平『近頃の若者はなぜダメなのか 携帯世代と「新村社会」』

内容の要約;

若者(現在10代〜20代後半くらいまでの、「携帯電話世代」)の関係性は、「空気を読む」ことが最も重要な「新村社会」とでも呼ぶべきものになっている。その原因として考えられるのが、ケータイメールの普及やSNSの流行などによる人間関係のネットワークの拡大・細密化である。若者は新村社会で「村八部」にならないよう、つねに空気を読み、コミュニケーションに忙しい。
最近の若者の「草食化」や、消費意欲の減退は、ネットの中の膨大な情報に触れて自分で実際に体験する前にものごとに食傷してしまうというところに要因を求められる。そのようにネットによって狭い行動範囲や興味の中にちぢこまってしまう若者がいる一方で、ケータイやwebを利用して、以前の時代では考えられないほどに関係のネットワークを広げ、その「つながり」の中で助け合ったり、クリエイションをしている若者もいる。
 ケータイを悪者扱いしたり、今日の若者を嘆いたりする言説は多いが、悪い面ばかりが強調されてしまっている。若者のことを知ることが重要なのではないか。それはひいては世代だけでなく、時代を知ることにもつながる。

背景、意図;

「近頃の若者はわからない」という声がしばしば聞かれる。著者は広告代理店で若者を研究しており、本書は非−「ケータイネイティヴ世代」である30代以上に向けて、若者を理解する助けになることを狙いに書かれている。そのため、本書は今の日本の若者論に支配的な「反若者」vs「反−反若者」という不毛な世代間闘争のどちらかに加担するのではなく、中立的に著者がフィールドワークを通して知った若者の実態を語っている、とされている。

考察;

挑発的?なタイトルはさすが著者が広告系なだけあっての売るためのあえてのミスリードで、中身は意外にあからさまに反若者的なものではなかった。本書で言われている「若者」とはケータイ・ネイティヴ世代のことであり、著者はケータイ文化の登場・発展が、若者と非若者ネイティヴ世代と非ネイティヴ世代の間にある種の大きな相互不理解のある要因であるとしている。ここでは特に著者の「新村社会」論、つまり若者の間でのコミュニケーションの変容について論じていることに注目して考察を進めていく。
著者によれば、ケータイやSNSなどのコミュニケーション・ツールの発達によってもたらされたコミュニケーションの増大、関係の拡大―過剰―が、ひとつひとつの関係を薄くしてしまったことにより、「キャラクター」などの記号を媒介とした表面的なコミュニケーションが主流になった。そのコミュニケーションでは、その場を楽しくやりすごすことが絶対化し、結果「空気を読むこと」が非常に重要な「新村社会」になっている。これは北田暁大が「つながりの社会性」と名指した現象に関しての議論の縮小反復版であり、退屈ではあるものの、とりたてて反論すべきところは見当たらないように思える。

ここに私なりの視点を付け加えるならば「若者」の「つながり」は実は大きくふたつに分けられるのではないか、ということである。ひとつめは、「消極的」なものである。著者が若者に聞き取り調査をした際の関係や、「若者はだめだ」という言説が生まれる職場でのつきあい、学校におけるクラスメイトなどとのつきあいがこれにあたり、とりあえず「つながっておく必要」があるからコミュニケーションをしている際のものである。
もうひとつは、趣味や楽しみなどの「ネタ」を共有した集団の間での「積極的」なものである。「島宇宙」や「タコツボ」などと呼ばれるものはこれにあたる。ライフスタイルやエンタテイメントが多様化し、もはや誰とでも共有できる「ネタ」がなくなった以上、このふたつの分化は必然である。「消極的」なつながりでは、各自がキャラクターを演じ、その場の空気を読み合いながら温めていくことが主題化していき、「積極的」なつながりでは、狭い関心の空間で相互に承認を与えることが主題になっていく。
本書で取り上げられているコミュニケーションの変容の例は、すべて「消極的」なつながりに関するものである。著者が言う「新村社会」というのは、ある程度の出入りの不自由さを前提としており、それ故に「村八分」を恐れて読空術もキャラ演技も過剰になるのだが、「島宇宙」は出入り自由であるためそれがない(あるいは弱い)。島宇宙島宇宙で問題があることは間違いないが、若者のつながりがすべて新村社会であるという風に紹介してしまうのはいかがなものだろう。表面的でしばしば窮屈な「消極的」なつながりだけでなく、もう少しディープな「積極的」なつながりがあるのだということも、注意すべきではないかと思う。

金沢旅行

急に思い立って金沢に行って参りました。夜行バス→加賀温泉に一泊→金沢に一泊→夜行バスの4泊3日。雪化粧の金沢の街は美しく、料理は美味しく、ひとは親切でした。また行きたい。
加賀温泉では花つばきという旅館に、金沢では橋本屋という旅館に泊まりました。前者は温泉が素晴らしく、後者は料理が素晴らしかった。どちらもおすすめです。
こちらはひがし茶屋町にある、150年前のお茶屋さんの建物をそのまま見学できるところで撮った写真。蛙の置物がベリークール。

ベルンハルト・シュリンク『朗読者』

朗読者 (新潮クレスト・ブックス)
強制収容所」という最悪の過去に関しての記憶。善とはなんなのか?悪とは?そもそもそんなものは「ある」のか?よくわからない。しかし悲しみは、憎しみは、確かに「ある」。ハンナの記憶。元収容者の記憶。記憶の中の死者たち。死者たちは既に灰となり、語ることも呼びかけることもない。しかし我々はその呼びかけを感じ取る。呼びかけなき呼びかけ。決して応えることの叶わぬ呼びかけが小説の中に響いている。応えることができないのならば、それは忘却されるしかないのだろうか?死者たちを、収容所を忘れることによってのみ、われわれはその事件が、そしてその記憶がもたらした傷から回復することができるのか?わからない。『イェルサレムアイヒマン』をいい加減読まなければ。

RIP,Salinger

サリンジャーが亡くなったようです。
BBC News - JD Salinger, author of Catcher In The Rye, dies at 91
J.D. Salinger, 91; 'Catcher in the Rye' author became famous recluse
ご冥福を。そして天国のサリンジャーに心からの感謝を捧げたい。
ふたつめの記事には、未発表の小説15作が金庫の中にあると語っていたらしいことが書かれています。出版されるといいな。

SOUR "日々の音色"


文化庁メディア芸術祭エンタメ部門、大賞受賞作品だとか。
twitterで「時かけ」「サマーウォーズ」の監督である細田守さんが「すごい」と紹介していて、どうせたいしたことないんだろ*1とタカを括って観たのに、かなり感動して不覚なことに泣きそうになってしまった。ていうか本当はちょっと泣いてしまったのだ。
僕たちはなんだってできるんだ、という気になった。本当にすごい。
ちなみに

SOUR "日々の音色" のためのミュージックビデオ。(ミニアルバム "Water Flavor EP" 収録曲)このビデオを作り上げるために、世界中のSOURファンに協力を募りました。ビデオで使われている映像は全て、ラップトップのwebcamによって撮影しています

だそうです

*1:僕にはサマーウォーズがちっとも面白くなかったのでここらへんムダに攻撃的なのである。ちなみにサマーウォーズはメディア芸術祭アニメ部門大賞。ケッ

排除すること、棄て去ること

「内包社会から排除社会へ」。フーコーの「死の中に廃棄する」という言葉を思い出す。あるいは「自己責任」という言葉。

ジグムント・バウマンは次のように自問する。シングル・マザーとアルコール中毒者、あるいは不法移民と学校中退者といったような、はなはだしく異質で多様な人びとの集合を〔「アンダークラス」という言葉で〕ひと括りにして捉えるということはどういうことなのか?と。この多様な人びとを眺めてみるとそこに含意された一つの特性が浮上する。それは彼らが「完全に無用(tottally useless)」ということである。つまり、彼らは、「その存在がなければ麗しい風景のシミ」であり、「彼らがいなくても誰も損をしない」というニュアンスである。しかしその危険はかつてのように、<社会>が負担を負うべきリスク・ファクターなのではない。述べたように、資本の観点から捉えるならば、それは<社会的>装置を通してふたたび労働力商品化すべき「労働予備軍」として自らの運動のうちに包摂しうるような人口の一部門なのではない。彼らは労働力商品としてはムダなのである。バウマンはいう。人間の歴史上はじめて、「貧民は社会的な有用性を喪失した」
だがそれは資本主義のはらむ欠陥・困難としては把握されない。(…略…)
ネオリベラリズムは、福祉国家的理念やケインズ主義を特徴づける社会保険や社会化するリスク管理の形態を拒絶して、リスクを個人化することで「個人を責任主体に形成し、競争の促進や市場モデルを通して統治するよう追求する」。脱工業化のもたらす半永続的な失業人口は、かくして<社会>の引き受けるべき課題ではなく、彼ら自身の性向の問題に還元されるわけである。
酒井隆史『自由論』、p.286