いま、それでも、“善く”あることについて

ポストモダン状況の進行する中、国家や社会が標榜してきた大きな物語も、あるいは個人に意味を備給してきたそれぞれの小さな物語も、何もかもが脱構築可能な、突き詰めれば無根拠でしかない虚構であることが暴かれた。脱構築を免れられるのはただひとつ、独我論的主体のうちでひたすら肥大していく、欲望の弁証法の過程のみである。
今日において、倫理、或いは道徳もまた虚構のひとつでしかない。
「倫理・道徳は脱構築されずに超越的な地位に留まるべきだ」という語らいは、その「べき」の足場がそもそも倫理・道徳にあるために、まったく無効化されてしまうだろう。
このような、規範意識の弱体化が必至である社会状況の変化に対して、政治からは、個々の成員が自らの利益だけを志向して行動したとしても、できるだけ衝突や暴力性の噴出が発生しないような、全体としてうまく回っていくような社会システムを設計する、というアプローチができるだろう。


では文学からはどうか。
「≪父≫が不在の世界で、どう“善く”生きるか」、これは、村上春樹の諸作品のうちに共通するテーマだ。或いは手塚治虫の描いた『どろろ』の世界や、ポストモダン文学の多くもこのテーマに取り組んでいると言えるだろう。
「倫理・道徳に斜線が引かれた世界で、それでも“善く”生きるとはどういうことだろうか?」
「究極的には根拠のないその身振りに、それでも説得力のようなものを持たせることは可能だろうか?」
“善く”生きることを示そうとするものは、この二重の困難に立ち向かわねばならない。
“善く”生きようとするものは、究極的には無根拠であることを承知した上で、引かれた斜線を埋めるように、その存在を捧げなければならない。もはやどこにも足場を持たずに浮遊するばかりの“善く”を支えるものは、主体の存在そのものによってでしかあり得ない。
そのような“善く”は確かに、容易に転倒され、脱臼され、骨折されてしまうだろう。しかし、転倒し、脱臼し、骨折しても、敢えて従い続ける、そのほとんど愚かしいばかりの身振りの中にしか、“善く”はない。
ポストモダンの世界では“善く”は語られるものでなく、示されるものだ。
“善く”を考え、示していくことは、いま、文学の重要な仕事だろうと思う。