アーキテクチャと身体性

自由・身体・環境管理

先日、吉祥寺のマクドナルドに行ったらものすごく椅子が硬かった。shitである。尻が痛い。これだからマックは嫌なんだ。俺はウェンディーズを愛している。
マクドナルドの椅子が硬いのは、座り心地を悪くすることで客の回転を速くするためだ、と言われている。ドトールとかもそうらしい。小癪な。
ところで、自由というのは、ほとんどの場合「何かがしたいのに、禁止/抑圧されている」という形で、「自由」で「ない」というネガティヴとして発見される。まず欲望と、それに対する禁止があり、「自由でない」が感覚が現われてくるわけだ。
しかし、先ほど挙げたマクドナルドの例のような場合、つまり「椅子が硬くて座り心地が悪いから、客が長居せず早く出ていく」場合、「自由でない」という感覚は発生しない。客自身が勝手に(自由意志に基づいて!)、出ていきたくなったから、これ以上座っていたくなかったから、尻が痛くなってきたから、立ち上がるだけだ。「座り心地」という、人間の身体的な感覚の部分をコントロールすることで、客の行動をあくまで「自由」なまま、コントロールする。
ジョルジュ・アガンベンは、人間の動物的な(つまり政治化、社会化されていない)生を、<ゾーエー>と呼び、<ビオス>(社会的政治的生)と対置したが、このときマクドナルド的手法にコントロールされているのはこのゾーエーの領野である。
このように、アーキテクチャのデザインを操作し、快/不快のようなゾーエーの、「剥き出しの生」の領野に直接働きかけることで、人間の行動を(つまり欲望を)コントロールする、という、極めてポストモダン的なこのシステムのことを、東浩紀は、環境管理型権力と名指し、フーコーが近代に特徴的とした<規律/訓練型権力>と対置させた。環境管理型「権力」とついているものの、超越的、或いは絶対的権力主体がどこかにいるわけではない、いわば無人称の権力である。ポイントは、規律訓練型権力による「禁止」に対してひとは自由の制限を感じ不満を抱くが、この環境管理型の働く場においては、ひとは別に抑圧を感じない、そして恐らくコントロールに気づかないということだ。

セキュリティ・排除

環境管理型権力の働く社会は(つまり現代社会は)、いずれもゾーエーの欲望するところのものである、「安全」「清潔」「快適」へ志向を足場に、飛躍的に進歩し続ける情報技術による個人の識別と、それに基づいたエリア管理(ゾーニング)によるセキュリティの徹底へと邁進していく。
行くべきでないところに行くべきでない者が立ち入れないようにする(未成年者の立ち入り禁止エリアの設定、ペドファイルに児童の生活圏内への接近を禁止する、などが想定できる)など、そこにある「べき」でないものの丹念な排除。このような監視/管理が、対象である市民たち自身によって積極的に欲望され、その過程を担われて進行する。それが商店街の商店主たち、住宅街の住民たちによる自主的な監視カメラの設置に端的に顕れている。
監視/管理によって、そして暴力によって絶対的な権力を得ようとする、ビッグ・ブラザー的、或いはスターリン専制者はどこにもいない。むしろ暴力を排除するために、安全のために、快適さのために、監視/管理システムの強化が望まれている。それを突き詰めていった時に顕現するのは、暴力・犯罪といった危険さ、不潔さ、不快さ、不健全さ、不明瞭さといった要素が排除された、「暮らしやすい社会」だ。そこでは自由は抑圧されていない。誰も何の権利も奪われていない。「するべきでないことをする権利」、「犯罪を犯す自由」以外には。そしてもちろんそんな権利、自由は、最初から「ない」。

誤配可能性

しかし、その「暮らしやすい社会」はどこか気持ち悪いように感じるのだ。持ち合わせの言葉ではうまく説明できないような気持ち悪さが。そのような社会では何かが失われている。そしてその「何か」は人間にとって(人間のビオスの部分にとって)とても重要な「何か」であるような気がする。しかしまだ、僕たちにはその「何か」を名指す言葉がない、概念がない。だから説明することができない。けれど「語れない」ということは「存在しない」ということと決してイコールではないのだ。

残念ながら今のところ直観的な物言いしかできないのだが、僕はその「何か」とは(あるいは、少なくともその一部とは)、<誤配可能性>なのではないかと思う。間違った宛先に、受け取るべきでない者に全く場違いなもの、異物、他者性が届いてしまう、そのような誤配、また、誤配可能性の中に、決して廃するべきではない、人間にとって本質的なものがある、そんな気がするのだ。
「最も危険な概念は「安全」である」、という逆説について、考えている。