場・宙吊り・一瞬の、


これは前から思っていたけど国立の東西書店のマンガ売り場はかなり、とても頑張っていると思う。
聖☆お兄さん』の中村光コーナーをかなり前から常設しているし(たぶん1年くらい前からやっている)、オノナツメも注目される前からずっと推しているし、途中まで立ち読み可能な見本用単行本を作ってプッシュしてくるものがいちいち面白い。『よんでますよ、アザゼルさん』とか『ドロヘドロ』とか。『ヘタリア』とか。『SKET DANCE』も推していた。他にもいろいろ、その作品が大きく話題になる前から先んじて取り上げている。とにかくセレクト眼が光る。
誰が売り場作ってるんだろうか。あの長髪メガネの兄ちゃんか。もしそうだったらかなり頻繁に利用してるので顔を覚えられてるのではないかと思う。ていうかこの頃その兄ちゃんがいると「できる奴」だと思われようとして若干マイナーで玄人っぽいマンガをレジに持って行ってしまう。本当は『ベルセルク』買いたいのに『ブラッドハーレーの馬車』買ったりとか。ふふふ、とか思ってる。ちょっとおかしなことになっている。やめたい。



この頃国立のドトールの喫煙席/禁煙席の配置が変わってしまった。前までは2階が喫煙、3階が禁煙だったのが入れ替わって、2階禁煙/3階喫煙になった。別に3階まで上がるのめんどくせーよとか思ってるのではなくて、個人的に2階席には結構思い入れというか思い出があって、そこがもう利用できなくなるのはなんというか悲しいような、そういう微妙な気持ち。

彼女の心もやはりホワイト・ベア湖のどこかに留まっているのだ。すべての人の心が、必ずどこかに留まっているように。
(「ホワイト・ベア湖の夢」/村上春樹ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』)

僕の心も2階席に留まっているというのであれば、その心はもう死んでしまったことになるのだろうか。
いや、煙草吸わなければいいだけなんだけどさ。それだとちょっと違う、という気もするけど。



ロラン・バルト『表徴の帝国』を読み直している。
やっぱり俳句って凄い、と思う。あるいは、バルトって、凄い。

「俳句の読解の企ては、言語を宙吊りにすることであって、言語を喚起することではないのだから。」
「そしてそこにあっては意味化作用が受け取り手をもたなくなるため、なにものも、その空間、その塵埃を濃縮、構成、支配、完結することができず、できるはずもない。」
「俳句は、短い形式に還元された豊かな思念ではなくて、一挙にその正当な形をもった短い終局なのである。」

エクリチュールの零度。一瞬の閃光、一瞬の静寂、意味の停止。あらゆるものの停止。死。

俳句の巨匠、芭蕉はその企てがどんなにむずかしく、しかもどんなに必要であるかを、みごとに心得ていたと思われる。彼は書いている。
「なんと素晴らしい人であることか
稲妻を見て、
『生ははかないものだ』と思わぬ人は!
稲妻にさとらぬ人の尊さよ)」

ちなみに僕が一番好きな句は、蕪村の
菜の花や月は東に日は西に
というやつ。ぶわっ、となる。


表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)

表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)