Smoke/sexuality


昨日は高校時代の友人KとUと共に夕方6時頃からお酒を飲んだ。Uは今日の朝から用事があるということで10時頃帰っていったが、僕とKとは店を変えてしばらく飲み、そのあとKの働いているという雀荘へ。ちょっと見学に行くだけと思っていたのだが、友人が待ち受けていて僕とKとでちょうど4人そろったので結局朝まで麻雀をしていた。
Kがその雀荘に置いてあった鳥肉の燻製を呉れたのでありがたく食べたのだが、その燻製には薄いビニールが巻いてあってそれを剥がしてから食べるべきものだったことが後から判明、そんなことはKも僕も知らず、ビニールごとがっつり食べていた(普通に美味しかった)。そのせいか朝方になってふたりとも気分が激しく悪くなり、果たして僕はトイレで吐いたのだった。こうして自分史上最悪のクリスマスイヴの朝となりました。
あー、ていうか今日がこういう日だって普通に忘れててカットの予約してしまった。美容師のひとに友達も彼女もいないさびしい奴だと思われてるなたぶん。しかもお店は原宿だ。表参道はカップルだらけだろう。完全にアウェイだ。ぶるぶる。
クリスマスと言えば、最近書店に並んでいる『柴田元幸 ハイブ・リット』に、ポール・オースターの短編小説“Auggie Wren's Christmas Story”のオースター自身による朗読が収録されています(もちろんテキストもついている、しかも原文と柴田訳両方!)。これはとても素晴らしい短編なので、ぜひぜひ、立ち読みだけでもしてみてください。きっと気に入ります。そういえばこの短編をふくらませて映画化したものがあってタイトルは『スモーク』だった。スモークと言えば燻製である。燻製と言えばビニールだ。ぶるぶる。

柴田元幸ハイブ・リット

柴田元幸ハイブ・リット


bio-politicsのことつまり生政治とか生権力のことを勉強したいと思っていてそれならばその代表的な例である性の装置のこととかもホントはやらなきゃいけないはずでそうするとセクシュアリティに関する議論とかも読まなきゃいけないはずなんだけどそっちのほうはちょっとめんどくさいなあ。バタイユとかベルサーニとかクィア理論とか話がじわじわ立て込んでいて自家中毒になっちゃいそうな印象。だからせいぜいフロイトラカンが言っていたことあたりまででとりあえず満足しておきたいなあ、と思う。うーむ。

本来、人間は多形倒錯なのである。「正しい」異性愛のパターンが社会制度として課せられねばならないのは、まさにこのためである。(浅田彰『構造と力』)

なのであったらそもそも「倒錯」っていうのもおかしい、なぜなら「自然」な、正常な状態というのがどこにもないのだから。「人間的自然(human nature)は錯乱せる自然であり不自然である」からね。だから例えば「同性愛は異常だ」という言表は、言語ゲームで言えば真/偽が関与性をもつ表示的ゲームに属するのではなくて、正当/不当の管轄をする規制的ゲームに属しているのです→なのでみなさま寛容になろう、というか狭量なひとは馬鹿なひと。
我々の身体はほとんど隅から隅まで言葉によってコロニー化されているのであって、その意味で結局はヘテロセクシュアリティもパロディでしかなく、つねにすでにあるズレから逃れられるものではないのだった。というようなところまで知っていればbio-politicsの議論にはついていけるのではないだろうか。

それにしてもセクシュアリティって割と翻訳困難な単語だという気がしています、というのはsexualityの時点でひとによって使い方が違う、幅があるという感じがするから。単純に性だとか生物学的性だとか、性行動だとか性嗜好だとか、かなり散種していてこれだという意味が掴みにくい。フーコーのセクスアリテは性現象とか訳しましょうか。
sexualityに対して無理やり訳語を創っちゃっていいなら僕だったら≪性表動≫とか訳します。これ結構いい線行ってるんじゃないかと思うんだけどどうだろう?