諸アーキテクチャの共同体系

忘年会シーズンということでここ数日間ひたすら飲み回っていてほとんど家にいなかった。昨夜は3日ぶりくらいに朝帰りでなく夜のうちに家に帰ってきて布団で寝、今日は一歩も家を出ずにずっと本を読んでいた。ひとと一緒に飲んだり遊んだりするのも好きだし楽しいけれども、やはりひとりでだらだらしている時間が大好きなのだな、と思う。

岸田秀『ものぐさ精神分析』、浅田彰『構造と力』『逃走論』をぱらぱらと部分的に読んだ。どれも20年以上前の本。『ものぐさ精神分析』は読み物としてエキサイティングだし精神分析論入門としても機能するように易しく書かれているので、オススメです。『構造と力』は構造主義ポスト構造主義に関する本で多少難解だけども超名著なので是非。現在の僕の興味の原点です。『逃走論』は内容がバラバラだし別にいいかな。「逃げろや逃げろ」。しかし浅田彰は天才だなあ。

それと新しいのでは濱野智史アーキテクチャの生態系』。

アーキテクチャの生態系

アーキテクチャの生態系

これも非常に面白かった。ちょっと前に早稲田の生協で手にとったときは情報工学的な話かと思って敬遠して買わなかったんだけれども、ひとに薦められて結局読んでみたら全然そんなことはなく、どっちかと言うとサブカル批評、社会分析系の本。東浩紀宮台真司鈴木謙介北田暁大なんかを読んでるひとは読んで損はないと思う。同期/非同期というメディア論の用語を使って、2chやニコ動、Twitterセカンドライフなどを分析している章が秀逸。


その章を読んでいてなんとなく思い出したのが、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』の想像的共同体とメディアの関係。これは今更言うまでもないことだけど、国家というのは実体としてはどこにも存在していない。けれどみんながなんとなくそれを信じている。ちなみに近代国家には役割が3つあって、1.暴力の独占、2.共感の調達・制限、3.富の再配分。メディアは共感の調達に関係している。

「日本という国があって、我々は日本人である。」このときの日本というのが即ち「想像(≒幻想)の共同体」。その共同体幻想があれば「我々日本人同士皆で仲良くしよう、助け合おう」的な共感を作り出しやすい(これは対外戦争とか富の再配分にも絡んでくる)。じゃあこの場合の「我々」って誰のことだろう?この「我々」という幻想を作り出すのに大きな役割を果たしているのがTVや新聞などのメディア。「「日本」で起きた事件を共有している」ことが「我々」意識の核となっている。

それでまあ思うのが、そういうメディアがそういう共同体幻想に貢献するときに、重要なのは同期的であることなのではないかな、と。(「同期的」というのは、それを通じてコミュニケーションを行っている人々が、同じ時間=現在を共有している、くらいの意味。TVは同期的、新聞もまあ同期的、電話やチャットは同期的、本や手紙やメールは非同期的。)同期的な2chや疑似同期的なニコ動では「俺たち」的共同体意識が発生しているのに対して、非同期的なmixiやブログではそのような意識は発生していないように思える。2chまとめ系ブログを読んでいる者たちが、2ch本体の利用者たちから蔑視され叩かれる傾向にあるのも同期/非同期の差で説明できる。「2ちゃんねらー」、「ニコ厨」が特に軽蔑、攻撃の的となるのは、そのような「俺たち」意識に対するアンチとして理解できるのではないか。


とかなんとか今日はなんだかブログっぽい記事を書いてみました。こんなんしとらんで就活せんと。でも明日も飲み会だ。わーい。