餅、歯、眼。

三賀日ももう終わり。就職活動のあれやこれやをやらないとなあと思いつつちっともやる気にならず。ひとが多いのが苦手なのでセールにも行かず家でおせちやお雑煮を食べたりあとは新年会のようなものに参加するなどだらだらと過ごしていた。もちろんの体重の増加。

だらだらの内訳のその大体は、いつも通りに読書。勝間和代『読書進化論』を読んだり。勝間氏、なんだか非常に人気があるようなのでもうちょっと何かあるかと思っていたけれどそうでもないような。一冊読んだだけだけれど、何と言うか“ただの”「とてもいいことを言うひと」だな、という印象を持ちました。それは全く悪いことではないけれど、世の中のひとが考えていることがそれだけになってしまうのはちょっと怖い。しかし、こういった種類の言説しかもはや有効であるような言説はないのだろうな、という気もするのだった。

あとは川上未映子を読み返したり。『イン 歯ー』収録の、「感じる専門家 採用試験」が一番好き。存在論的問いかけ、そして、言葉の不可能性についての小説、或いは散文詩

言葉は通じるけども話は通じやんくて腐々(くたくた)んなりますわ、何年も何年もほんまに話になりませんわ、も、あんた、さくっと死んでほしいねん、ていう忌々しい出来事発露何やかやで今までこの町の人々は何千回も殺しあったのを、やっとこのたび、教訓としてちゃんとすることが出来ました。お喋りせんと、私ら静かにしてましょうってことになったんです。

そうして発語というものが一切なくなったその町で、ひとびとは「も、そら見つめあうくらいしかすることは残されていないのだから、も、私らは見つめあうだけ。」。≪視線≫は≪私≫を身体に密着させるから、≪私≫の内部が膨れ上がる感覚、身体が膨れ上がる感覚につながっていく。

ワセブン前号に載った「戦争花嫁」でも発語をやめた少女が描かれている。こちらではその少女「戦争花嫁」は不可能性からでなくて、言葉の暴力性への敏感さ故に発語を停止する。ジャック・デリダが「原―暴力」と名指したもの。言葉のうちにある決して逃れられない暴力性を感じ取ること。

言葉は絶対に伝わらないし常に暴力、ならばそれがわかっていてなお、彼女そして我々が書いたり話したりすることそれは何なのだろうか、何で有り得るのだろうか。正月からそんな埒の開かんことを考えたりとかです。デリダを読み進まねばね。

わたくし率 イン 歯ー、または世界

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アデュー―エマニュエル・レヴィナスへ

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