綿矢りさ『蹴りたい背中』

蹴りたい背中
綿矢りさが2004年に芥川賞を史上最年少(当時19歳)でこの『蹴りたい背中』で受賞したときは文芸誌以外の雑誌や、テレビなどでもかなり騒がれていたことを覚えている。金原ひとみ(当時20歳)との同時受賞に、当時素朴だった僕は文学業界のミエミエの話題作りのパフォーマンスっぷりに嫌悪感を抱いていて、普段純文学なんか読まないくせに流行に飛びついて『蹴りたい背中』と『蛇にピアス』を読んじゃってるひとたちを軽蔑のまなざしで見つめていた。以来綿矢も金原も人気先行の作家と勝手に決め付けて回避していたわけだが、どっこい読んでみたら面白かった。
物語は学校の人間関係にうまく馴染めない主人公長谷川ハツの1人称で語られている。ハツは自分が孤立しているのは、周りの「普通にうまくやっている」クラスメイトや部活の仲間が幼稚だからで、彼ら彼女らを心の中で見下している……というのはなんだか「ライ麦」のホールデン君みたいだなぁ、と思いながら読んでいたら、こんな↓箇所が。ハツが同じくクラスで浮いている存在の男子=にな川に向かって自分の孤立を釈明するところ。

「ああそういえば、長谷川さんも、生物の班決めの時に取り残されてたもんな。」
“とり残されてた”という響きが胸にぐんと迫ってきて、慌てた。(中略)
「そうじゃなくて、なんていうの、私って、あんまりクラスメイトとしゃべらないけれど、それは“人見知りをしてる”んじゃなくて、“人を選んでる”んだよね。」
「うんうん。」
「で、私、人間の趣味いい方だから、幼稚な人としゃべるのはつらい。」
「“人間の趣味がいい”って、最高に悪趣味じゃない?」
鼻声で屈託なく言われて、むっとなる。
「でもおれ分かるな、そういうの。というか、そういうことを言ってしまう気持ちが分かる。ような気がする。」

こういうのを作品内にさらっと織り込んでしまうというのがちょっと面白い。安易なような気もするが、気負いがない文体のおかげかスムーズに読めてしまう。全体としても内容的には結構ジクジクした暗い小説になっていてもおかしくないのに、話がずっとさらっと流れていくのは実は抑制の賜物でかなり巧いのかも知れない。
平野啓一郎が『小説の読み方』でも指摘しているように、現代の高校を舞台にした小説なのにケータイというツールが一切出てこないのはちょっと不思議。ハツと絹代というなんだか古めかしい名前も意図的なものだろう。「現代性」と縁を切りたかったのか。あと、読んでいて地域性が全く見えてこないのと、出てくる消費文化的記号=ブランド名が「無印良品」だけなのもなんだか面白い。とにかく「抑制」された小説だな、という気がする。