芹沢一也『暴走するセキュリティ』

暴走するセキュリティ (新書y)
非常にオススメの本です。
「セキュリティ」というワードを軸に、少年法や精神鑑定などにも触れながら、監視カメラの設置や防犯パトロールなどに象徴される、現代の不安社会における防犯意識の高まりについて論じている。

凶悪犯罪から子どもの安全を守るため、監視カメラや防犯パトロールなど、いたるところに防犯システムが張り巡らされている。だが、人の生命が犠牲になるような事件は、まったく増えていない。変わったのは、ありもしない「治安悪化」に怯え、過剰なセキュリティを求める社会の在り方である。実体のない不安が厳罰意識を肥大化させ、誰もが不審者とされる相互不信を招いている。

客観的に見れば日本の治安は戦後一貫して良くなっているのにも関わらず、マスメディア上には「安全神話崩壊」という言説が躍り、社会調査を実施すると「治安が悪くなっている」と感じているひとがむしろ多数であるという結果が出る。
「治安は悪くなどなっていない、むしろ良くなっているのですよ」といくら統計を示しても、「しかし体感治安は悪くなっているのだ」と返されてしまう。これはどういうことなのか。ていうか「体感治安」ってなんだ?⇒まさしくdiscourseそのものである。
体感治安」の悪化から人々は不安に駆られ、セキュリティへの希求はますます強まる。結果、システムの権力の増大が市民に熱望され支持されて進んでいく……というおなじみの生権力byフーコーな3章、4章は特に勉強になりました。哲学者萱野稔人との対談も、昨今の司法の当事者問題化(≒復讐化)とか論じられてて面白い*1
精神鑑定について論じた2章も個人的に前から考えていた疑問を前進させてもらって読んでよかった。
みなさま是非読んでみてください。

*1:ところで芹沢氏が「フーコー派」という言葉を使っている箇所があって、ちょっとこれどういう意味で使ってるのかよくわからないのだけどなんとなく違和感を覚えた。というのはフーコーの功績の重要な部分てフーコー派とか非フーコー派とかそういう風な区分がそもそも可能なようなものではなくて(つまり反論の余地がないというか…)、すべての(少なくとも人文系の)学問にとって後戻り不可能な共通の遺産だと思うのだけれど。非フーコー派というのがもし有り得るとしたら、そもそも読んでないか理解力が足らないひとたちなのでは?と思ってしまった。精神分析についてのラカンフーコーデリダ派…とかの局所的な対立ならまあわかるけども、そういう風に使われてるようではないような。