「この私」と遺伝子操作

「成熟とは自分には選べなかったことを自ら選び取ることである」というような言葉があります。誰が言ったかは忘れましたし(きっとバーナード・ショーでしょう)*1うろ覚えの引用ですが、言わんとすることはわりあいはっきりしています。つまり、我々は、人生のどこかの段階で、自分の生まれや容姿、才能など、自分の意思では決められないもの、どうしようもないことを、しかし「自分のもの」として引き受けなければならない、ということです。いつまでも「どうして私はこんなにおっぱいが小さいのよ!」とか、「なんで俺はこんな若いうちからハゲかけてるんだ!」とか親に詰め寄ったりしてちゃだめですよ、ということ。「このようにしか有り得ない自分」を引き受ける、ということと言えるでしょう。
我々は人生の決して少なくない部分が、「生まれつき」のもの、才能や容姿などの生来の条件によって決まってしまうことを知っています。そして周りを見渡してみれば、自分より容姿が優れたひと、才能が優れたひとがたくさんいる。そしてそのひとたちは自分より優れた天稟を享受して、自分よりよい生を送っているように思える。しかし羨んだって仕方がない、「この私」と折り合いをつけるしかない。「いま私が存在するならばこのような形でしか有り得なかった」という超越論的な感覚があるからこそ、「成熟」は可能になると言えるでしょう。
しかし、遺伝子治療や遺伝子操作というものの登場が、「このようにしか有り得ない自分」という前提のリアリティを崩してしまってきているのではないか、というようなことを思います。
例えば、TVや何かで、生まれつき障害を抱えている方が、そのご両親に対して、「私を生んでくれたことに感謝している」ということを仰っている場面というのは、皆さん一度くらいは目にしたことがあるかも知れません。障害を持って生まれたことを恨まず、「生んでくれたこと」それ自体に感謝している。
しかしこれが、「その障害は生まれる前に遺伝子治療で取り除けるものだった」のであればどうでしょう。つまり、「この私」が、「先験的な前提」ではなく「親のチョイスの結果」であると考えたときに、障害に関して親を恨まずにいられるでしょうか。僕はそれはやはり難しいのではないかと思う。*2
そしてさらに遺伝子操作技術が進んでいけば、いわゆるデザイナー・ベビーなどさらに優生学的なことも可能になる。そのとき、「どうして私は貧乳なの!」とか、「なんで俺はハゲなんだ!」とか、先に挙げた問いというのはまさしく親のせいということになるでしょう。「この私」は超越論的な前提ではなく、ただの「親のチョイスの結果」であると言う風な考え方がリアリティを得たときに、「この私」を引き受け、折り合っていくのは難しくなるのです。
遺伝子をいじることの是非に関しては、「その行為そのものの是非」という側面から論じることと、「その結果起きる社会的影響」という側面から論じることができます。前者だけを論じていると結局「価値観の問題」とかそういう話になって、「やりたいやつがやればいいし、やりたくないやつはやらなければいいじゃん」みたいな話にしかならない。むしろ重要なのは後者のほうだと思うのですが、あんまり注目されていないような記がします。highly抽象的な話になったりSF的な想像力を要したりするので難しいのかも。

*1:「誰が言ったかわからないときは、バーナード・ショーが言ったことにすればいい」という言葉があります。そしてこの言葉も「バーナード・ショーが言ったこと」です。

*2:アメリカやヨーロッパの一部の国では、「ロングフル・ライフ訴訟」というのがあるそうです。これは生まれつきの障害を持って生まれた方が、「生まれないほうがよかった」として医師(また、時に親)を訴える、というものです。とても悲しい話です。