セクシュアリティ・婚姻・親密性

0.レポート概要

 このレポートでは、セクシュアリティと婚姻に結びつきかたの近代から今日にいたるまでの有りようについて、フーコーの『知への意志(性の歴史 第一巻)』での議論の、そのうちとくに婚姻の装置について論じた箇所と、ギデンズの『親密性の変容』での、夫婦関係の変化および「純粋な関係性」への親密性の変容の議論を参照、比較する。また、その上で、今日の社会における性、恋愛、結婚、コミュニケーションにまつわる現象について考えてみる。

1.フーコー『知への意志』:婚姻の装置

 フーコーは『知への意志』で、「人間の歴史において性は抑圧されてきたと思われがちであるがそれは誤りで、それどころかむしろ秘め事“として”発達してきたのだ」ということを示して見せた。近代以降、性に関する知が、性を秘め事=「告解されるべきもの」として構成し、そして統治権力が性に関する知を極めて密度の高い通過点として利用し、ひとの内面に作用してきたのである。
 フーコーは『知への意志』の第四章第三節「領域」で、18世紀以降の性についての知と権力の戦略を大きく四つ挙げている。「女の身体のヒステリー化」、「子供の性の教育化」、「生殖行為の社会的管理化」、「倒錯的快楽の精神医学への組み込み」だ。この四つは絡み合って進行していくが、このうち、本レポートでとくに注目したいのは、「生殖行為の社会的管理化」である。

 「生殖行為の社会的管理化:経済的社会管理は、夫婦の生殖能力に対する「社会管理的」あるいは国庫財政上の措置を介してもたらされる教唆あるいは制御という側面によって勧められる。政治的社会管理は、社会集団全体に対する夫婦の責任を明確にすることによって実現される(それを限定するにせよ、反対に強化するにせよである)。(※1)」

 統治権力が生殖行為を社会的に管理しようとするのは、それが社会の自立的内部平衡(ホメオスタシス)に関わるからである。結婚、夫婦、家族という仕組み=婚姻の装置は、「生殖=(労働力の)再生産」の役割を負っている。婚姻の装置が強く働いている社会では、「正常な」性行為とは夫婦間のそれであり、つまり生殖につながるそれである。このような規範の内面化、再生産を通じて、社会のホメオスタシスは保たれてきた。フーコーは、性・結婚・生殖がなぜ、そしてどのように結びついてきたのかを語ったと言えるだろう。

2.ギデンズ『親密性の変容』

 『親密性の変容』でギデンズは、フーコーの『知への意志』を批判的に参照しつつ、近代から今日にいたるまでの性、婚姻、そして「親密性」について論じた。ここでは『親密性の変容』の性、婚姻、親密性についての議論のうち、ロマンティック・ラブの登場に関する説明と、今日における親密性の「純粋な関係性」化の進行に関する説明について分けてまとめてみる。

2.1.ロマンティック・ラブの登場による性・恋愛・結婚の結びつき
 前近代のヨーロッパでは、結婚は農業労働力の調達などといった経済的な事情で為され、そこには「恋愛」や「性的誘引」は必要ないどころか、それらはむしろ邪魔なものですらあった。しかし、ギデンズによると、18世紀後半以降、小説の登場とともに、「ロマンティック・ラブ」がもたらされる。
 ロマンティック・ラブとは、理想的、idea的なものであり、高潔なものであるイメージされており、性的愛着それ自体、また、愛情と性的愛着が結びついたものである「情熱的愛情」とも区別された。ロマンティック・ラブは性的熱中を制し、個々人の生を物語化していく。こうして、恋愛と結婚、そして性が「ひとつであるべき」ものとして結びつく。 
 「ロマンティック・ラブは夫婦関係を、家族組織のほかの側面から切り離し、夫婦関係を最重要視する「共有の歴史」を創出してい(※2)」き、結婚は義務的におこない続ける仕事のようなものから性的交渉や関係性が重視される一連の相互行為となり、また、家庭は成員にとって情緒的支援を期待できる場になっていった。

2.2.自由に塑型できるセクシュアリティと親密性の「純粋な関係性」化
 しかしこのようなロマンティック・ラブによる性・恋愛・結婚の結びつきは、次第に崩れていくことになる。これは、避妊法の開発が性と生殖の分化をもたらし、セクシュアリティが自由に塑型できるものとなっていったことに対応している。自由に塑型できるセクシュアリティは、「完全に一人ひとりが有し、他者と互いに取り交わす関係の特性となっていった(※3)」。
 「かつて愛情は、ほとんどの性的に「正常な」人びとにとって、婚姻を介してセクシュアリティと結びついていた。しかし、今日、愛情とセクシュアリティは、純粋な関係性を介してより一層強く結びついている(※4)」とギデンズは述べている。純粋な関係性とは、社会関係を結ぶというそれだけの目的のために結ばれる(=外部のエコノミーに拠らない)関係性である。性・恋愛・結婚の一体での結びつきは弱まり、性と愛情、コミットメントの結びつきが強まっているのが今日の社会であると言えよう。

3.考察

 このレポートではフーコーとギデンズ、それぞれの著書での議論のうち、性と婚姻に関わる部分だけを扱っているために、実に乱暴なまとめになってしまうのだが、それを承知でふたりの議論を比較すると、フーコーは個々人の性や規範、アイデンティティというミクロな領域から統治権力というマクロなものを読み取り、論じたが、ギデンズは関係性というミクロなものの時代ごとの変化、そして今日における有りようを論じている、という風にまとめられると思う。
 フーコーが「性の歴史」で行った権力分析は非常に偉大な仕事であることは間違いない。しかし、今日の社会における性に関する規範の衰退(もはや性は《秘め事》ではなくなりつつあるのではないか)、そしてセクシュアリティの生殖からの自立化という状況では、ギデンズの議論のほうが当てはまるところが多いというように感じる。
セクシュアリティが今日見るようなかたちでわれわれにとって重要性をもつことは、セクシュアリティがモダニティの有す統制システムにとって重要な意味をもつからではなく、セクシュアリティが、経験の隔離と親密な関係性の変容という別の二つの過程の結節点となっているからである。(※5)」とギデンズが述べているように、性はわれわれにとって依然として重要であることには間違いないが、しかしその重要性の中身が変わってきている。フーコーが分析の対象とした時代と今日とでは、性に関する意識に相当な差があるだろう。その差の大部分は、特にここ30〜40年来の、ギデンズが「性革命」と呼ぶ時代にできたものであるように思われる。セクシュアリティが自由に塑型できる再帰的なものとなり、また、関係性の再帰性も高まっていく傾向は、ギデンズが『親密性の変容』を書いた15年前よりもますます強まっているように思われる。
 今日の性や恋愛、そして結婚に関する現象について、ギデンズの議論から考えられることは非常に多い。出生率の低下、未婚率の上昇や出会い系の流行などはいまに始まったことではないが、例えばブームになっている(?)「草食系男子」などは、「純粋な関係性」から弾かれた、あるいはそれに疲れた者たちとして理解できるのではないか。他にもいろいろとアイディアは湧いてきそうな気がするが、物理的限界=文字数と時間的限界=締め切りを鑑みて、ここらへんでレポートを終了=切断させていただく。


注:

※1:『知への意志』(新潮社)、p.137
※2:『親密性の変容』(而立書房 )、p.72
※3:『親密性の変容』、p.47
※4:『親密性の変容』、p.90
※5;『親密性の変容』、p.265