赤木論文

授業の課題で赤木論文を読んで感想を(ry というのを書きました。
「丸山眞男」をひっぱたきたい

 非常にショッキングな内容の論文だ。私はこの赤木論文が『論座』に掲載され話題になっていた際に読んだが、今日また改めて読み直してみてそう感じた。この論文で為されている主張は、世代間闘争という構図に思考が凝り固まっており論理性を欠いているし、なにより感情的すぎて説得力がない。しかし、それらの欠点が、この論文にある種の「切迫感」を生んでいるようにも思える。「ひっぱたきたい」、「希望は、戦争。」というタイトルは、あまりにも扇情的で、ともすればふざけているようにも受け取られるかもしれないようなものだが、この論文を読んだ者には、これらの文句が挑発のための大げさな表現であるとか、あるいはただの冗談であるようには決して思われないのではないか。それほどまでにこの文句に切迫した者の本気さが備わっているのは、論文全体から感じられる、赤木の深い「絶望」の所為であるように思う。
 31歳のフリーターである赤木は、自分の生活を、「人間の尊厳を欠いた状態」として捉えており、そのような状況に陥った原因を、「ポストバブル世代が経済成長世代の失敗の後始末を押し付けられているから」だと考えている。さらに、そのような構造が社会に認知されず、自己責任としてポストバブル世代が逆に攻撃されてしまうような世に対して、
深く深く絶望している。通常の手段ではもはや「浮上」が不可能となっているがために、「人間の尊厳」を取り戻すには、「一発逆転」が可能になる状況、つまり戦争が起こることすら自分は、そして若者は望んでいるのだ、と赤木は主張する。このような物言いに対しては、「戦争の悲惨さを知らないからそんなことがいえるのだ」とか、「生きていられるだけでありがたいのだ」という反論が当然あるだろう。しかし、赤木にとって、「31歳のフリーター」である生活は、「生きながらにして死んでいる」のと同じことなのだ。生きながらにして死んだ生活を続けるくらいなら、死ぬかもしれなくても逆転を夢見ることができる戦争状態のほうがまだマシである、というのが、論文執筆当時の赤木の心情だったのだろうと思う。
 左派の知識人を代表する人物と言える丸山眞男を「ひっぱたきたい」、「希望は、戦争。」という赤木のこの訴えが『論座』に掲載されたことの衝撃はかなりのものだったように記憶している。今でこそ、雨宮処凛湯浅誠などの活動の成果もあってか、若年層の貧困問題に対して単純な自己責任論が主張されることは少ないが、論文が掲載された当時には、赤木が書いているように、TVや新聞などのマスメディアではフリーターやニートといった若者たちは、「本人の努力不足」というイメージとともに問題化されていた。左派の論壇にあっても、若い世代の論者はほとんどおらず、若年層の貧困の問題はさして注目を集めるようなトピックではなかったのではないか。そこへきて赤木のこの論文は、まさしく「ひっぱたかれるような」ショックを、左派の知識人や読者たちに与えることに成功したように思われる。