統治性は何を計算するか

ミシェル・フーコー講義集成〈8〉生政治の誕生 (コレージュ・ド・フランス講義1978-79)
貧困=努力不足、自己責任という言説、そこにはたとえ努力不足、能力不足でも、そこそこに暮らせるように社会を設計する、という発想が欠けている。そもそも本当に努力が足りていないのが貧困の原因なのか?わからない。しかし努力は足りていないはずである。ともかく「努力は常に少なすぎる」のが今日の社会の原理なのだから。
重商主義の国家理性は人口をカウントする。人口=労働力=生産力=国力という単純な式。人口は多ければ多いほどよい、というわけだ。
しかし重農主義以降の近代統治性がカウントする数はもっと複雑だ。人口は労働力、消費力、そしてコストの側面をもつ数字としてカウントされる。したがって統治性にとって人口はもはや多いほどよいということにはならない。
このような統治性の知の主要な形態は政治経済学である。統治性による政策は人口をターゲットにし、労働力・消費力を増大し、コストを下げることを志向して決定される。
フーコーによれば、そのような統治性の下の社会が当然行き着くところとして新自由主義がある。
生産力は常に少なすぎ、コストは常に多すぎる。個人は市場に投げ込まれ、その「自然」に適応することを求められる。その空間はかつてなく自由だが、しかし競争から降りることだけは許されていない。歩くことは許されない。絶えず加速していくか、それとも死の中に遺棄されるか。
確かに新自由主義に対するオルタナティブを思考することはとても難しい。それは個人はもちろん、国家の生存条件であるように見えるから*1*2

*1:そういえばフーコーの批判した市民社会の「市民」というのはアメリカ型市民なのではないか、という説明を授業で聞いた。この説明は、『生政治の誕生』の序盤のフランス革命の書かれ方が好意的であるように思えることとも整合するような気がする。

*2:あとは、国家の時間と個人の時間のズレも気になる。統治の論理は被統治者の論理に一致するとフーコーは言うが、このズレは致命的ではないか。つまり、被統治者の論理に則った統治は、長期的には国を滅ぼすのではないかということ。現実には政策は国家の時間で思考されてはいないのではないか。自分の世代の時間、任期の時間で思考されている。ここでなんとなくカール・シュミットの例外状態の議論が思い出される。通常状態の政治は実は全然政治ではない。例外状態は確かに真性に政治だよなあ。一般意思であり得るかも、とすら思う。