Q・タランティーノ「イングロリアス・バスターズ」


bravo!!な出来。まさしくタランティーノらしい映画だった。彼の作品は、映画を鑑賞するということの中にあるインタラクティヴな部分を挑発し、また、それ(インタラクティヴな反応、関係)自体を映画の構成要素としてしまう。観客の(タランティーノ映画を含む)映画的記憶に働きかけるオマージュや演出の数々、映画内映画の上映会という状況設定。ストーリー、演出、編集、どれをとっても、無茶苦茶をやっているように見えて(実際無茶苦茶なのだが)、実は徹頭徹尾計算されている。
タランティーノの映画が「無茶苦茶」なのは、「お約束」を時に冗長さを感じさせるほど過剰になぞり、時に豪快に裏切ってみせて観客を翻弄するからだ。無意味に残虐なシーン(無意味であることが必要なのだ)、そろいもそろって頭のおかしいキャラクターたち(主要な登場人物であるほど頭がおかしい)、シリアスな状況をわきまえないネタの挿入。人が死にまくる凄惨なシーンであるはずなのに、なぜか笑いがこみあげてきてしまう。モブキャラの無味乾燥な死よりも、むしろ主要登場人物の死が哀しく描かれているほうがより笑えるという奇怪な事態が現れる。
タランティーノは前作「デス・プルーフ」で、誰もが抱えるサディスティックな欲望をかきたて、利用し、観客を映画の残虐行為の「共犯」に仕立て上げてしまったが、今作では、そのような共犯性もまた、ネタとして料理されている。映画内でのプロパガンダ映画「国家の誇り」で、ドイツの狙撃兵が敵兵を次々と射殺していくのを喜んでいるヒトラー総統の姿は、悪役がやられるのを喜んでいる我々観客そのものだ。さらには、自ら主役を演じた「国家の誇り」を観て、「たくさんの人を殺したことで英雄とされてしまうことにどこか違和感を覚える」というポーズをとるツォラーがモラリスト気取りの観客の似姿である以上、この映画は観客の誰にも安全な場所にいることを許さない恐ろしい映画である。
@吉祥寺スカラ座で。観客は20人くらい。平日とは言え大丈夫なのか……。