労働と承認

労働にはふたつの側面がある。
(1)収入を得る手段
(2)承認を得るステージ:アイデンティティに関わる側面
どちらをどれくらい重視するかによって、労働をめぐる問題に関する議論というのは全く変わってくる。
マルクスは労働とは本来、人間を人間たらしめるもの、"類的本質"であると言った。しかし、ブルジョワ資本主義化では労働と人格は切り離され、労働者は本来の労働から疎外されてしまっている。マルクスは、労働者をそのような非人間的な労働への疎外状態「から」解放し、さらに、本来的な、類的本質を備えた労働「へと」解放する革命の必然性を説いた。多少乱暴だが、アーレントの用語を使えば、laborからworkへの解放ということになるだろう。
このような議論は今日では「労働は本来人間の類的本質であるっ!(キリッ)」みたいな感じの扱いだがw、まあでも労働は確かに、承認を得るステージとして機能している、あるいは、機能していた。
で、このごろの産業構造の変化、新自由主義化⇒非正規労働の増加の流れで、(2)の側面がやばいと。非正規労働の場では、十分な承認を得るのは難しい。で、そういう労働のかたちというのは、よろしくないと。
しかも地域的つながりとか家族的つながりとかも弱くなっているので、さらに労働でも承認得られないとなると、承認不足でやばい、と。そんなんだと赤木論文みたいに、「俺たちには人間の尊厳がない!」→「よろしい、ならば戦争だ」みたいになっちゃうよ、と。ちゃんと労働で承認を得られるようにしろ、と。なるほど。
でも、なんかもう政策とかの議論では、労働は(1)で割りきっておくしかなくて、承認に関しては、適当に各人が趣味なりネットなりでなんとかするしかないんじゃね?ということを考えている。例えば主婦はずっと、そういった労働での承認からは疎外されてきていたわけだけど、では主婦が全員不幸だったかというとそんなことはなくて、友人なり趣味の仲間なり育児なりから承認を調達してきたわけだし。
このごろ赤木さんのTwitterでのつぶやきを読んでるのだが、実は赤木さんの抱えている不幸というのは、かなりの部分文学的なものなのではないかという気がしていて、そこらへんからこういう考えが強くなってきた。あるいは僕が新自由主義的な考え方に浸っているのかもだけど。