"Phoney !!"

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ

J・D・サリンジャーの小説に『ライ麦畑でつかまえて』(若しくは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』)というのがあって、なんでかこの小説は「中学生の頃に読んだ」というひとが、わりと多い。というか、かなり、とても多い気がする。これはなんでなんだろうか?
思うに、「『ライ麦』は中学生のうちに読むべき/読ませるべき」という一種の倫理のようなものが存在しているのだ。これがどのようにして成立したのかは―由来が出版社の販促戦略によるものなのか、或いはもっとテクストと読者の関係性からの自然発生的なものなのか―わからないけれど、この根拠不明な倫理が、我々の無意識に、夜の間に降って朝には溶けてしまっている雪みたいに、浸透しているのではないか。
かくいう僕も中学生の頃にこの小説を読んだクチである。
恐らくこの小説のもっとも素朴な読み、中学生である読者の大多数が抱くであろう読みは、「人並み外れた繊細さをもった主人公のホールデン君が、世の“phoney”―インチキ―を告発していくが、やがてその繊細さ故に破滅する」というようなものだろう。「善なる主人公vsインチキに満ちた世界」という構図である。少なくとも、中学生の僕はそのように読んだ。そのような読みのうちにホールデン君に全面的に感情移入し、自分を重ね合わせ、世の中に憤ったものだった。
しかし、いま、21歳になり自分のphoneyさも自覚せざるを得なくなってきたいま、考えると、この読みは素朴に過ぎるだろう。
一人称の語り手であるホールデン君への感情移入を止めて、醒めた視点で彼の語りを眺めてみるとわかること。
それはまず、ホールデン自身が十分にphoneyであることだ。ここでいちいち挙げることはしないが、彼が他者をphoneyとして告発するその論理を、彼自身の行動に向けてみる(脱構築的に読む)と、ホールデンはphoneyな者たちのなかでひとりイノセントな存在であるとは全く言えない。それどころか、自身の行動を棚に上げて他者を攻撃してばかりいる分、彼によって攻撃される者たちよりも、ホールデンの方がむしろタチが悪い、とさえ言える。
さらに、彼は小児性愛者なのだろう。これはそういう風に読めるというだけでなく、そういう風に書かれていると言ってしまっていいだろうと思う。なぜ彼は妹のフィービーをはじめとする子ども達に特権的なイノセントさを見出し、盲目的な愛を注ぐのか。なぜ彼は子どもたちの訪れる博物館の壁に"fuck"の落書きを発見したときに、あれほど取り乱し、怒るのか。それは子どもと落書きとの結びつきが、自我によって抑圧され、無意識下に沈殿させられたホールデンの欲望―小児性愛―を、言い当ててしまう、そのことに対する精神の防御機構による拒絶反応ではないのか。おそらくこの抑圧が、ホールデンの語りに、語られる彼の心情に、大きな影を落とし、彼の破滅を導いているのだ。
この小説はだから、「善良で繊細な主人公がインチキを告発し、しかし最後に敗北してしまう、切ない青春小説」なのではない。
それでは、そうでないならば、この小説はどのような小説なのか?
「テクストの意味を、決定不可能性のうちに、宙づりの状態にしておくこと」を脱構築の目的としたデリダの教えをここでは敢えて無視して、言い切ってしまうならば、この小説は、ひとりの人間がその精神の葛藤のうちに破滅していく過程を描いた小説、つまりサイコホラーである。
僕たちは、ホールデンの一人称の語りの彼には例外的な親密さに、その相手がまさに読者である「この私」であるということに、「この私」に与えられたその特権性に、知らず知らずのうちにノックアウトされてしまうのだろう。その眩暈から醒めた時に、また違う読みが可能になる。『ライ麦』が傑作であることは、思春期の少年の心理を見事に描いたということはもちろん、この多層的な読みを可能にする構造の巧緻さに支えられているのだ。


※ちなみに『ライ麦畑でつかまえて』の「つかまえて」は、原題"The Catcher in the Rye"の「Catcher]つまり「つかまえ手」と掛かっている