恋愛・カエル・固有名


グリム童話に「かえるの王様」という話がある

ある国の王女が、泉に金の鞠を落としてしまう。そこへカエルが「自分を王女様のお友達にしてくれるのなら、池に落とした金の鞠を拾ってきてあげよう」と申し出る。王女は鞠を取り戻したい一心で、その条件をのむ。

しかし、王女は鞠を取り返すと約束を破ってカエルを置いて帰る。それでもカエルは自力で城にたどり着き、王女に約束を守るように言う。王女は嫌々ながらもカエルと一緒に夕食をとった後、すぐに寝室に戻るが、カエルは寝室にまであがりこんできていた。

図々しいカエルを見て王女は怒りのあまりカエルを壁に叩きつけるが、そのおかげでカエルの魔法が解け、立派な王子に戻る。これまでの無礼を詫びた王子の求婚を受け、二人は幸福な結婚をする。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%AE%E7%8E%8B%E3%81%95%E3%81%BE

割と意味わかんないし身も蓋もないような話、ヤマなしオチなしイミなしみたいな
実は童話とか民話はそういう話が多い
皆さん子どものころイソップ童話とか読んだはず、それでいちいち教訓とかあったはず
「北風と太陽」だったら、無理やり力で解決するんじゃなくて頭使おう、とか、優しくしよう、とか
だけど北風にビュービュー吹く以外に何ができたのか?選択肢ないだろ、みたいな
ちゃんと考えるとおかしい話が多い、だから面白い
で、この話(カエルの王子様)から無理やり得られる教訓は何か?
親切にしてくれてもカエルは気持ち悪い、カエルとは結婚できない、ということ
ここでカエルはアブジェクト(ab-ject、分離されるべきもの、嫌悪対象)だ
「『おくりびと』で考えるアブジェクション」というエントリを書こうとしてるんだけど面倒で延び延びになってる
アブジェクションはジュリア・クリステヴァの概念
ゼミの先生によると「いやーん、って感じのこと」らしい
先生は時折非常に面白い
クリステヴァって語感がカッコいい
あとジグムント(・フロイト)とか、デリダネグリもかっこいい

私のどこが好き?
美人だから好きなの?
お金持ちだから?
美人じゃなくても好き?
お金持ちじゃなくても好き?
私自身を愛してもらいたい

みたいなことを言い出すひとが世の中には結構いるようだ(話者を女性に設定してるのに特に意味はないです←フェミニズム的センシティビリティに対する予防線)
ここで返すべき答えは誰でもわかるだろう
「もちろん俺は君自身を愛してるよ、美人じゃなくても好きだ、お金持ちじゃなくても好き、〜〜じゃなくても好き、〜〜じゃなくても……」
じゃあ誰でもいいじゃんということになる
すべての属性を離れて「私自身」を愛せよこの野郎、みたいなことを突き詰めるとおかしなことになる
属性は問題じゃないんならカエルでもいいじゃん。いいのか私がカエルになっても?
「いや、俺は君がカエルになっても愛し続けるよ」
ホントかよ、と思う
でもそういうお話は結構ある
もうちょっと現実的なとこでは記憶喪失になって性格変わっちゃったりとか、植物状態になっちゃったりとか
それでも愛情が続くというのは実際に有り得る、ような気がする
じゃあ最初からそこらへんのカエルを好きになったりはしないのはなんでなのさ?
なんでカエルじゃなくて私なの?
なんでなんだろうね
愛情の対象には想定上、交換可能な部分と交換不可能な部分がある気がする
交換不可能な部分が「私自身」?
クリプキの固有名と確定記述、剰余の議論が絡むだろう
あとは普通に思い出とかね。情緒的な部分。過去/記憶が絡む
デリダだったら痕跡とか言うだろう
デリダって詩的だ。幽霊に憑かれた哲学。
ラカンだったら幻想とか言うだろうか
ラカンは皮肉っぽくて冷たい感じ
ふたりともファーストネームがジャックだ
どうでもいい

日記:
両親が旅行に行ってしまったのでご飯が出ない
素パスタとか食ってる
なかなかにわびしいですぜ