見田宗介『まなざしの地獄』

社会学見田宗介が、1968年から1969年に起きた連続ピストル殺人事件である永山則夫事件を、都市における階級構造と関係性に着目して分析する論考。当時の「学卒就職者の転職理由」、「職場に対する不満」などの様々な社会調査から見田は<統計的事実の実存的意味>を読み取っていく。その発想の斬新さ、そして繊細で深い想像力に圧倒された。
永山の事件から見田は、「尽きなく生きる」ことを目指しながら、他者との関係性の中で<否定性のアイデンティティ>に常に再帰させられてしまう都市の出稼ぎ労働者たちの姿を浮かび上がらせる。彼らは、そのように自らに否定性を刻印するコミュニケーション=<まなざしの地獄>の中でその精神をいびつに成形されてしまっている。そのような<地獄>からの脱出を、関係性からの蒸発を願望する出稼ぎ労働者たちの姿。永山もまた、まなざしの地獄からの逃走を試みた者ではなかったか。
家郷から希望を携えて都市へと出稼ぎにくる「金の卵」たちは、社会の中でその名の通り「新鮮な労働力」でしかない。貧困は彼らの家族を、家郷を破壊し解体してしまった。彼らには逃げる先はおろか、帰る場所もありはしないのだ。

われわれはこの社会の涯(はて)もなくはりめぐらされた関係の鎖の中で、それぞれの時、それぞれの事態のもとで、「こうするよりほかに仕方がなかった」「面倒をみきれない」事情のゆえに、どれほど多くの人びとにとって、「許されざる者」であることか。われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするものではなく、われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、見捨ててきたものすべてのまなざしの現在性として、われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である。

見田が淡々と描き出す<階級の実存構造>は、どこまでも哀しい。
ゼミの課題で読んだのだが、やはり名論考と呼ぶにふさわしいものだった。また、見田の弟子である大澤真幸による解説には、<まなざし>に関連付けて、永山の事件と、2008年の秋葉原での無差別殺人事件の対照性の分析が展開されている。秋葉原事件の犯人加藤はむしろ、<まなざし>を求めていたのではないか。透明性からの脱出。至高の悪においてはじめて、彼は透明であることをやめられたのだ。
見田による論考、大澤による解説ともに、いろいろと身につまされる部分が多かった。今読んで良かったと思う。

まなざしの地獄

まなざしの地獄