大学・キャリア・管理社会

この前のゼミは最初は『まなざしの地獄』について話そうという予定だったのに話がどんどんズレていって結局ロスジェネの話とか、<歴史の終わり>とそこで生じた世代間の気分の断絶の話とかをずっとしていた。夢とか希望とかないんですよ、という。
あとは「大学がキャリア教育とか頑張ってやってんのってアホみたいじゃないですか?ww」とか「人文系は今後もうダメですねたぶんww」とかね。
リオタールが30年前に予言したように、今日では「文学とか哲学とか何の役に立つんだよwww」みたいな考えが全面化してきている。ここで言う「役に立つ」ってのは「仕事につながる」という意味でしかなくて、つまり「金になるかどうか」でしか考えられなくなってきている。そういう意味では確かに人文系の学問はほとんど役に立たないだろう。「逆に役にたたないほうが尊い」みたいな魔術的手法でかろうじて正当性を保っていたわけだけども、その魔術は失効してきている。ホントは「「役に立つ」ってなんなのさ」、とかそういう根本的なことを考えるのが人文系の学問なんだけれど、フツウのひとにはそんなこと言ってもわからない。
なんか思うにたぶん最近は大学の中のひとたちもだんだん馬鹿になっていてヤバい。「大学の職業訓練校化」に対して何の疑問も抱いていないのではないかというセンセイ方が結構いる。
ジル・ドゥルーズは1990年に発表された短いエッセイ「管理社会について」(河出文庫『記号と事件』所収)で、フーコーが規律社会と呼んだ社会には「監禁」という特徴があると言っている。

規律社会は大々的に監禁の環境を組織する。個人は閉じられた環境から別の閉じられた環境へと移行を繰り返すわけだが、そうした環境にはそれぞれ独自の法則がある。まず家族があって、つぎに学校がある(「ここはもう自分の家ではないぞ」)。そのつぎが兵舎(「ここはもう学校ではないぞ」)、それから工場。ときどき病院に入ることもあるし、場合によっては監獄に入る。監獄は監禁環境そのものだ。類比的なモデルとなるのは、この監獄だ。

しかし今日その規律社会は、管理社会にとってかわられようとしている。監禁から管理へ、というわけだ。

「監禁は鋳型であり、個別的な鋳造作業であるわけだが、管理のほうは転調であり、刻一刻と変貌をくりかえす自己=変形型の鋳造作業に、あるいはその表面上のどの点をとるかによって網の目が変わる篩(ふるい)に似ている。」

「規律社会では(学校から兵舎へ、兵舎から工場へと移るごとに)いつもゼロからやりなおさなければならなかったのにたいし、管理社会では何ひとつ終えることができない。

「…管理は短期の展望しかもたず、回転が速いと同時に、もう一方では連続的で際限のないものになっている。人間は監禁される人間であることをやめ、借金を背負う人間となった。」

管理社会にはリセットがない。資格取得とかスキルアップとかの「キャリア形成」がだんだんとその重要性を増していくのはこれによる。管理社会は我々に果てしない引き延ばしを課す。
そのような終わりなき管理、引き延ばしの状況の中で<企業>の論理が大学にも入り込むとドゥルーズは言っている。

「学校の体制では、さまざまな平常点の形態と、生涯教育(career education:キャリア教育)の学校への影響が表面化し、これに見合うかたちで大学では研究が放棄され、あらゆる就学段階に「企業」が入り込んでくる。」

「…じじつ、生涯教育が学校にとってかわり、平常点が試験にとってかわろうとしているではないか。これこそ、学校を企業の手にゆだねるもっとも確実な手段なのである。」

そしてその大学の職業訓練校化を学生たちも歓迎することになる。ドゥルーズは言う。

不思議なことに大勢の若者が「動機づけてもらう」ことを強くもとめている。もっと研修や生涯教育を受けたいという。自分たちが何に奉仕させられているのか、それを発見するつとめを負っているのは、若者たち自身だ。

「管理社会について」は11ページしかない短いエッセイだけど、他にも今日の社会についての非常に正確な予言がたくさんあって面白い。これをヒントにいろいろなことについて考えることができる。ドゥルーズはやはりカッコいいね。ところで『記号と事件』は装丁がとても綺麗。



記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)