森見登美彦『恋文の技術』

恋文の技術
モリミーこと森見登美彦の第6作。文通修業中の主人公=守田一郎がさまざまな人物に宛てて書いた手紙の文面のみによって構成されている、いわゆる書簡体小説
最初から最後まで、主人公の手紙の文面以外の部分が全くないため、その手紙と「(主人公が生きている世界内での)現実」との接触点が一切ない。複数の主観からなる遠近法も存在しないために、手紙はいわば完全に宙に浮遊している状態だ。
手紙の内容が「本当」なのか、或いは全くの妄想であり、ダイアローグの片割れを偽装したモノローグであるのかもわからない。手紙の内容は「地の文」ではなく、隠れた引用符でくくられており、台詞と同じように偽りや誤解が「アリ」だからだ。しかし、あらゆる小説というのはそもそも引用符でくくられており、虚偽であり妄想あり偽装なのだ。『恋文の技術』に限らず、書簡体小説や日記体小説というものは読者に、我々の現実に「つねにすでに」付きまとっている引用符について、つまりすべての表現行為に必然的に潜んでいるフィクション性、「編集」についても考えさせる効果を持っている。
↑というような技法的な効果というのはしかしあまり前面には押し出されず、『恋文の技術』は基本的にはいつもの森見氏的な非シリアスな路線の小説です。彼の小説の多くは非現実的な、幻想的な設定がとりいれられていることが多いけれど、書簡体というスタイルでそれをやるとリアリティを確保するのが難しくてあまりにも妄想じみてしまうからか、今回はマジック・リアリズムは排除されている。もしやっていたとしたら夢野久作の『瓶詰の地獄』みたいになっていたかもしれない。
ところで言うまでもなく「手紙」というのはデリダ的テーマだ。小説の最後の部分にこんな一節がある。主人公は「どういう手紙がいい手紙か」ということを考えた末、ひとつの結論に至る。

そうして、風船に結ばれて空に浮かぶ手紙こそ、究極の手紙だと思うようになりました。伝えなければいけない用件なんか何も書いてない。ただなんとなく、相手とつながりたがってる言葉だけが、ポツンと空に浮かんでる。この世で一番美しい手紙というのは、そういうものではなかろうかと考えたのです。

ここで「風船に結ばれて空に浮かぶ手紙」は、「ただ誰かとつながりたいという気持ち」の純粋な結晶である。手紙を出すこと=呼びかけであり、誰とも知らぬ誰か、誰かと限定されぬ誰か、つまり「他者」に対してその呼びかけは無限に開かれている。「誤配可能性」は手紙の届くための絶対条件だが、しかしこの手紙にはそもそも「正配」がない。「誤配しかない」ということは即ち誤配はないということ、そしてそれがもし誰かに届いたのであれば、常に「手紙は正しい相手に届いた」ということになる。
「風船に結ばれて空に浮かぶ手紙」が「この世で一番美しい」のは、それが無限の「他者」に対しての「贈与」の呼びかけだからではないだろうか、ということをなんとなく考えさせられた。