サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』

ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)
現代演劇最大の傑作とも言われる、劇作家ベケットによる戯曲。解釈を誘いながら撥ねつけるような作品。読みにくいというわけではないが、難しい。
『ゴドー』は2幕で構成されている。

第1幕ではウラディミールとエストラゴンという2人の浮浪者が、ゴドーという人物を待ち続けている。2人はゴドーに会ったことはない。ゴドーの代わりに使者の少年がやってきて、ゴドーは今日は来ないが明日は来る、というゴドーの伝言を告げる。
第2幕でもウラディミールとエストラゴンがゴドーを待っている。1幕と同様に、使者の少年がやってきて、今日は来ないが明日は来る、というゴドーの伝言を告げる。2人は自殺を試みるが失敗し、幕になる。

1幕、2幕ともに、ウラディミールとエストラゴンはゴドーという自分たちを救ってくれるだろう未知の存在の到来を待ち続けているが、ゴドーはやってこず、救済(あるいは非―救済)は遅延される。
「待っている」が「なにも起こらない」ことが「繰り返される」。これは「待ち望んでいるものの到来」は「永遠にない」ということを暗示している。
2人がひたすら待っているゴドー=Godotが意味するところとはGOD=神なのか。あるいはただの人間なのか。ゴドーはそもそも存在するのか。2人は「待ち続けている」というポーズをしているだけなのかも知れない。
ゴドーを待つ間、退屈を紛らわすために、「時間を進めるために」、2人はほとんどナンセンスな会話や、全く面白くもないゲームをしたりしている。2人の姿はことごとく滑稽で哀しい。すべてが「待ちながら」であり、その場しのぎの方策でしかない。
『ゴドー』は「我々は皆、決定的な瞬間=救済を待っている」、そして、「待っているものは決して到来しない」のだ、という解釈ができると思う。さらに、我々が個々の人生に於いて為すことというのはすべて、「待ちながら」の「退屈しのぎ」なのかも知れない、ということをちょっと思った。是非舞台で上演されたものも観てみたい。*1

*1:なんとなくカフカ「掟の門」を思い出した。「待っている」つながりだ。「ゴドー」と「掟の門」を並べて考えたら面白そう。