「編集する」ということ

yom yom (ヨムヨム) 2009年 03月号 [雑誌]
いま書店に並んでいるyomyomに平野啓一郎が「すべてが「不滅の小説」」と題して、今日の小説、メディア、webを巡って4ページの短いエッセイを書いているのですがこれがかなり密度が濃く質が高いものなのでぜひ読んでみてください。ちょっと引用してみます。

問題は、ますます加速してゆく情報の過剰供給状態に対して、それを処理する人間の時間が、寿命にすればせいぜい80年程度、一日の時間としては24時間と、決して増加しないことである。そうして今求められているのは、情報の適切な縮減方法である。

……情報の複雑さと過剰さを縮減するためには、編集は、これからますます必要とされる能力である。

ところで「「編集」という行為は、雑誌や映像をつくるときだけに行われるわけではない。我々は編集を日常的に行っているのだ」というのは、僕が市川真人さんの講義「編集論」で学んだことです。例えば就活においてエントリーシートを書いたり、面接の場で自分について語るのは、まさに「編集」です。
ある情報のmixtureをつくるときに、その全体をどう見せていくのか考えながら手持ちの素材をカット&ペーストしていくというのが「編集」です。そのとき編集行為には適切な価値判断が、そしてある種の批評性というものがなくてはならない。
さらに言えば、編集という行為はcreation創造ではないけれど、しかしgeneration生成であります。今後、編集が重要になっていくということは、生成が台頭していくということと連動しているのでしょう(生成については、思想地図2巻の濱野智史論文を参照)。
編集と生成についてはいろいろ考えるべきことが多そうです。平野啓一郎のエッセイは他にも示唆的なところがいくつかあるので(小説のストックが蓄積されていくことと、その時代ごとの「現代作家」の小説の場所について、など)、そのうちにそちらについても考えてみたい。