欲望・行動・セクシュアリティ

ゼミでの雑談でジュディス・バトラーの話になり、その流れでペドフィリアを承認すべきかどうかについての話が出てきました。
僕は基本的に同性愛も両性愛も、インター・セックスであることもトランス・セックスであることも差別されることなく全面的に承認されるべきだと考えていますが、しかしペドフィリア小児性愛)や、いわゆるロリコンショタコンについては難しい。そのようなセクシュアリティが現実に場を持つときに、それが「搾取」や「暴力」になってしまうことがままあるからです。
「内面に踏み込むことは絶対にするべきではない」というのは常に大前提であるので、ペドフィリア的な、ロリコンショタコン的な「欲望」は規制されるべきではない。しかし、「行動」はそれが「搾取」や「暴力」になってしまうならば、規制が必要だと思います。
そうだとしても、現実にどのような規制をつくるのか、どこから規制するのかということを考えたとき、その規制は、論理からの一種の跳躍=「決断」なくしてはあり得ない。例えば、「どうして50歳のオッサンが20歳の女子大生と付き合うのはおkなのに、30歳の男が18歳の女子高生と付き合っちゃいけないんだよ」という木多康昭的問題に対しては、厳密に考えると「そういうことになっているから」ということでしか答えられない。くだらない、とかイヤらしい、とか思われがちですが、ここらへんは実は結構微妙な問題です。頭を使って考えてみる価値はあるかもしれない。
また、「被害者」のいないような児童ポルノ、いわゆる「二次元」のロリコンものとかは規制するべきなのかどうか、というような話もしました。「ファンタジーに欲望を挑発されて、実際にやりたくなっちゃうやつがいるから規制しろ」とか、「現実と虚構の区別がつかなくなって云々」とか、そういった「それ自体には被害者がいなくても犯罪を助長するから規制するべき」という言説はよく耳にしますが、しかし実際にそういったファンタジーが存在していることで犯罪は増えているのかどうか、というのはわかりません。確かに、「欲望を挑発されたせいで実際の犯罪に走る」ひとというのは一定数存在すると思われます。しかし、「ファンタジーで欲望を充足させ発散させている」というひとも相当数いると思われます。ここらへんは精神分析的な話になってきますが、欲望というのはすべてそういうものです。そのファンタジーの存在が果たして犯罪を増やしているのか減らしているのか、というのは、両者のデータを出して比べてみないとわかりません。そしてそれはもはや思想の判断するところではなくて、ただの算数です。それは哲学ではなく社会学の範疇でしょう。
結局雑談は「『レオン』ってあれどう考えても恋愛関係だよね〜」とか「『エコール』ってフランスのおされな芸術映画という言い訳ができるけど結局ただのロリコン向け映画でしょ?」とかそういったところに収束して終わりましたが、いろいろ興味深い問題を提起してくれました。そのうち考えよう。
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