人間的な、不足なく人間的な…… ;セイバーヘイゲン「バースディ」について

いわゆる生命倫理に関して考える授業で、SF作家フレッド・セイバーヘイゲンの「バースディ」という短編についての文章を読みました。その文章が誰によるものか先生に聞き忘れたのでわからないのですが結構面白かったのでちょっと引用してみます。かなり長くなります。

【「バースディ」あらすじ】
――いったいどれほどの規模なのかもわからない巨大な宇宙船の内部で、24人の赤ん坊が生まれる。それは数世代を費やして地球からはるか遠い星を目指す恒星間宇宙船。
赤ん坊たちは泣き、食べ、遊び、成長して言葉を話し、学び、恋をして、やがて戸惑い、悩み始める――仲間との関係、世界(宇宙船!)の成り立ち、そしてなぜ自分はここにいるのかという謎に。かれらは自分たちが宇宙船のなかで生まれ、生きていることを知っている。そして自分たちが活きているあいだには、目的地に到達できないことも知っている。それだけではない。かれらの生活は地球上にいる私たちと似ているが、いくつかの点で限定されている。かれらは他の世代と交わることがない。かれらは子供を、家族をつくることはできない。宇宙船に備わった人口生殖装置から生まれたひとつの世代の24人だけが、かれらの世界のすべてなのだ。
いや、正確にいえば、もう一人いる。それがこの物語の語り手である13歳の少年、バートである。バートは一年に一度だけ、冷凍睡眠から覚醒させられ、一日を他の24人と過ごすという任務を与えられている。宇宙船のコンピュータによる説明では、24人の生活は基本的に自動化されたメカニズムによって守られているが、それだけでは対応しきれない人間的な問題の解決には、「親」となる人間がやはり必要なのだという。だが実際には、彼にできるのはたいしたことではない。何度目かに目覚めたバートは、少年同士の暴力沙汰を止めることさえできないのだ。しかも24人が歳を重ね、ほどなくバートを追い抜いてからは、「親」としてふるまうことなどできるはずもない。
だがどれほど困難な事態が起こっても、不思議なことに、船は彼にこの奇妙な任務の意味を教えてはくれなかった。自分よりも先に年老いて、自分よりも先に死んでゆく人々と深く関わることにいったいどんな意義があるのか、少しも理解できないまま、バートは24人の人生を、早回しの映像を眺めるように、ひたすら見守り続けるしかない。
やがて、かつての赤ん坊たちも年老いて、一人、また一人と病に倒れ、死んでゆく。かれらは自分たちがここにいることの意味を、そして誰も生殖能力をもたないことの意味を突き止めようと無益な努力を積み重ね、力尽きてゆくのである……。
事の真相は、物語の終幕で突然明かされる。
ある朝――はっきりと書かれてはいないが、まちがいなく24人の最後の一人が逝った後――いつものように目覚めたバートが教えられた真相は、驚くほど明快なものだった。子供たちのためには、人間の親が少なくとも一人は必要である。あと十数年でわれわれは移住先の惑星に到着する。今日から君の目覚める日を増やし、親として、移住の第一世代を育ててもらう。船はバートの耳元でつづける。
「子供たち同様、きみも第一級の遺伝形質を持っていますから、おそらく、子供たちがおとなになったときも、リーダーの位置にとどまれるでしょう。今日からそのための実習が始まります。基本的な人間心理に関する初歩の勉強は、昨日で終わりました。」
ようやくすべてを理解したバートは、満員のベビー・ベッドからにぎやかに聞こえてくる泣き声に導かれ、新しい育児室の方に向かっていく……。

とこれが「バースディ」のあらすじ(らしい)です。つまり最初の24人はバートが基本的な人間心理に関する初歩の勉強のための「教材」だったわけですね。なんかいけないような気がします。しかしこの文章の書き手氏は上記のあらすじに続く部分で、以下のように述べています。曰く、

【生命は虐げられていない】
翻訳家の伊藤典夫は、この短編が、超世代恒星間飛行というSFの常套句的設定に「背筋が寒くなるような新風を吹き込んだ」とコメントしている。たしかにここでは何か起こるべきではないことが起こっているように思われる。何かとても大切なものが、やすやすと踏みにじられているように感じられるのだ。
けれども、何がまずいのだろうか。私たちの時代における市場の善である「生命」は、ここでは少しも脅かされてはいない。誰も船によって暴力をふるわれたり、殺されたりはしなかった。あの24人は手厚く保護された環境で育てられ、おおむね寿命をまっとうしたではないか。かれらは殺されたのではなく、むしろ生かされたのである。それは善いことではないか?――生命が尊重されるべきであり、それを奪うことが悪だとすれば。

とのことです。無論ここで書き手氏は、「この物語では実は起こるべきでないことは何も起こっていないのだ」ということを主張したいわけではなく、問いを投げかけています。この物語を読んだものが受けるなんとも言えない不気味な、おぞましいような印象は何に起因しているのでしょうか。

「命」が「道具」として利用されること?

この物語のなかで、24人の命は、「教材」つまり道具として利用されています。これは誰でも直感的に嫌な感じを受けるところです。しかしこの物語の不気味さ、おぞましさの原因はそれだけでしょうか?僕は違うと思います。例えば、戦争に関して考えると、そこで兵士たちが「お国のため」という大義のもとに捨て駒的に扱われ、死んでいく、というのはとてもよくあることです。そういった事例に我々は憤りや哀れみを感じます。けれども、「バースディ」から受ける不気味さ、おぞましさはそれとはちょっと違うという気がします。

むしろ「人間性」が「道具」になっていること

僕が思うに、この不気味さ、おぞましさの原因は、24人の持つ「人間性」が、24人が「道具」であることを可能にしているところだと思います。
例えば、先ほどの兵士の例で考えると、兵士ひとりひとりの「人間性」は、兵士を兵士という「道具」であるためにはむしろ邪魔な部分です。感情のないロボットのような兵士のほうが使いやすいでしょう。「兵士性」だけあればよいのです。
あるいは、我々は牛を人工的に繁殖させ育成しそして牛肉を食べますが、これも「生命」を「道具」として利用している例だと言えるでしょう。しかしこの場合も食肉として利用できれば、つまり「牛肉性」だけあればよいのであって、「牛性」はいりません。
けれども、「バースディ」の24人には、「人間性」がなければ「道具」たりえません。遊んだり、泣いたり、恋をしたり、自分の生の意味について悩んだり、といった「人間的」な部分がまさに「教材」として必要なのであってそこがなければ話にならない。「兵士」ではなく、あるいは「労働力」といったものではなく、「人間」であるということそのものが「道具」となっている。そこがこの「バースディ」に独特の不気味さ、おぞましさを与えているのではないでしょうか。*1
と、このようなことを考えました。しかしSFって面白いなあ。

*1:戦争などを批判する文脈で「人間の尊厳を踏みにじっている」という表現が使われることがあるけれども、それで言ったらこの「バースディ」では、「人間の尊厳」は踏みにじられてはいない、というか、むしろ、尊重されている、と言えるのではないか。