村上春樹『1Q84』

1Q84 BOOK 1
村上春樹は少なくともある時点で物語を語ることをやめた作家だと思う。作家が物語を語るのではなくて、村上は小説の中のモノに物語を語らせている。人→人の直接的なコミュニケーションをある部分で諦めて、モノとモノとの会話を聞き取らせるという間接的なコミュニケーションを試みている。だから村上の小説には暗喩が多用され、世の読者たちはその謎=暗喩の読み解きに躍起になり、巷には村上の小説の「謎解き」が書籍あるいはweb上に溢れることになる。読者である我々はテクストそのものだけでなくそれら暗喩と暗喩の反響をも引き取って、時にはさらに声を付け足してテクストの空間へと返すのだ。
しかし個人的なことを言えばそういった作業(暗喩の無数の反響音を聴き取り、そこに意味を見出していく作業)がなんと言うかちょっとめんどくさくなってきているような気がしている。ただメタフォリカルであるためのメタフォリカル(レヴィ=ストロースが紹介した熱帯において部族ごとに伝わる神話のように。)、なのにもかかわらず、苦労して意味を求めているのではないか…?というような疑いを振り払えぬままに読んでいる。長編であるということも関係しているのかもしれないが、今作(特に後半)は読み終えた時点でなんというか微かな徒労感みたいなものがあった。リトル・ピープルとはなにか、ふたつの月が意味するところはなにか、エトセトラえとせとら。やっぱりちょっと疲れる。あるいはそういったことを考えずに無心に読んでしまえばいいのかもしれないが、しかし無心に読むなら村上でなくてもっと適したテクストがあるだろうという気もする。そして不思議なのはこのような小説が初日だけで68万冊も売り上げてしまうというところだ。明らかに普段ほとんど小説を読まない層のひとびとが大勢買っている。そのようなひとたちは村上の小説を本当に面白いと思って読んでいるのだろうか?結構謎。