男女逆転メロス/女同士の友情の不在について

今日は太宰治の生誕100年。さまざまなメディアで太宰が取り上げられていますね。
斜陽 (新潮文庫)
走れメロス (新潮文庫)
人間失格、グッド・バイ 他一篇 (岩波文庫)
太宰といえば『人間失格』ですが、しかし人間失格を実際に読んだことがある、というひとは案外少ないのではないでしょうか。むしろ、ほとんどの国語の教科書に載っている『走れメロス』のほうが多くのひとに読まれている。かく言う僕も教科書で初めてメロスを読んだクチ。
『メロス』と言えば「熱い友情」の物語、というイメージが強いですよね。しかしメロスを友情の素晴らしさ描いた物語、として読むのは実はちゃんと読むとかなりおかしいのですが、まあそれは今は置いておきます。
さて、「男同士の友情」ってホメロスイーリアス』の昔から今日のジャンプマンガ(友情・努力・勝利)にいたるまで、物語上の主要なモチーフのひとつであり続けたわけですが、しかし「女同士の友情」ってなかなか表象にならないよね〜、という話をゼミの先生としていました。ここでいう「男同士の友情」、例えばメロス=セリヌンティウス的な友情、悟空=べジータ的な友情とは何か、というと、それは「対」であり、「信頼」であり、「対等」である関係です。しかしこのような関係の女版は表象の中には驚くほど見つからない。
少年マンガではこの「男同士の友情」というのはそれだけでも物語を駆動していくほどの強力なツールであるのに、少女マンガでは「女同士の友情」はストレートに主題として描かれたことは恐らくこれまでなかった*1、という話からこの「表象における女同士の友情不在問題」がこの前のゼミで提起されたのですが、しかし考えてみると少女マンガだけでなく、小説にも映画にも「女同士の友情」は見当たりません*2。これは面白い。実に興味深いです。表象とジェンダーに関する問題ですね。「男女逆転メロス」を考えていただければわかりやすいと思います。メロスとセリヌンティウスが女だったら……と考えると、物語のリアリティがまったくなくなります。言い換えれば、「お話にならない」。なぜ「お話にならなく」なるのか、ということ、また、「なぜ表象において女同士の友情はタブーなのか」問題*3は考えてみる価値がある。
けれどもこのごろの少女マンガには「女同士の友情」は普通に存在する、という意見も出ました(「NANA」とか。あまり読んだことないのでわかりませんが、確かにこのごろのではそうなのかも)高度経済成長社会において少年マンガが男性に企業的、労働者的感覚を内面化させる役割の一端を担い、少女マンガは男性に寄り添う女性を内面化させてきたと考えられますが、しかしそのような社会がすでに過去のものである今日では、少女マンガにもまた友情が必要なのかもしれません。
ところで、僕は太宰では『斜陽』が好きです。「戦闘、開始。」とかの印象的なフレーズとか場面とか、消えていくものたちの物悲しさとか。そして何より「ひらりひらりとスープを召し上がる」主人公のお母様が素敵過ぎる!
(追記:ブクマコメント応答)
>nmun:つhttp://www.amazon.co.jp/dp/B0019YLB4K/
ウテナ』 は典型的な「レズビアンっぽくなる」例ではないでしょうか。あんまりちゃんと観てないからはっきりとは言えないけどそういうアニメだったはず。
>osito:「赤毛のアン」のアンとダイアナとか?
これは確かに「女同士の友情」と言えそうですね。「対」だし「信頼」だし「対等」だし。ゼミでも「アンとダイアナ」の例はそう言えば出ていました。しかしこの友情もダイアナの結婚を機に急速に影が薄くなっていってしまいますね。アンが女の子として「型破り」だからこそ成立している、という考え方もできるかも。
>pen_pen_gusa:女は人そのものと友情を育むのではなく、「何か(同じ趣味や生活環境、立場等)」を介して友情を育むって感じだからなあ。その「何か」から離れた途端にそこ由来の友人関係が一気に消えてなくなる事が多い気がする。
そんな「気がする」のはまさに表象の影響ではないでしょうか。現実には「男同士の友情」があるのと同じくらい「女同士の友情」は存在しているのではないかと思うのですがそうでもないでしょうか。
ところで、<「人そのもの」の間の友情から、「場」ごとの「キャラクター」の間友情へ>というのは、今日に於いて男女問わず進行している事態だと思います。ここらへんはこのごろ考えていることのひとつ。

*1:少女マンガにおいても女と女の友情は描かれますが、しかしそれはチームなどの「グループ」単位だったり、岡ひろみお蝶夫人のような「姉妹的な関係」、つまり対等ではない関係であったり、あるいは「男女間の恋愛」の添え物くらいの位置であったり、と、「男同士の友情」に対応するようなものはあまりないはず

*2:あってもレズビアン疑惑っぽく描かれる

*3:少女マンガで言えば、萩尾望都が美しい友情を描こうとしたときに少年×少年に向かっていったのも、川原泉の描く少女たちが皆「女の子っぽくない」が故に友情を成立させているのも、こういう背景があるのかもしれません