前田塁「"知"の臨界時計―「Googleブック検索」の針が刻むもの」@群像

いやいやこれは面白い。Googleブック検索の出現やwikipediaの発展などに代表されるさまざまなWEB上の情報サービスのますますの影響力の増大そして進化に伴う書物の書かれ方、また小説の消費のされ方の不可避の変質の話、はては世界の不均質化の話とかがされている。
wikipediaについて論じられているところをちょっとだけ引用

ユーザーが記入・編集し、一元的な校正・校閲の機能を備えないwikipediaでは、誤記は第三者により発見・修正されます。公開から修正までにはタイムラグが不可避なうえ、間違った方向に"修正"される自由もありますから、wikipediaの項目は常に"誤記である可能性"と共にあります。Encyclopediaが2009年、オンライン版百科事典Britanica.comの記入・編集をユーザーに開放するさい専属の編集者や契約スタッフによる校正・校閲の一元化を必須とした決定は、Wikipediaに対する批評的振舞いであるとともに、優位を確保する行為でした。
けれど一元化された検証はその基準のもとでの精確さしか保証しません。Wikipedeiaが潜在的に主張するように知識は相対的かつ一時的なものであり、集合的知の柔軟は、"間違う可能性を手放さない"と同時に、"精確である可能性を確保する"ものでもあります。ゆえに両者の違いはどちらが精確かにではなく精確さをとこに依るかにあり、Britanica.comやEncyclopediaがWikipediaに勝るとすればそれは、自身の記述の精確さを、"承認=切断"する主体性、"命がけの飛躍"ゆえになります。

ちょっとこれ以上の引用が面倒なので止すけれども*1、ここらへんでは重要なことがかなりコンパクトにまとめられて言われている。前田塁、というか市川真人さんのこの辺の話というのは1年位前に既に講義で話されていて、今回載ったのはそのさわりの部分だけという印象だけども、やっぱり頭がいいですね。本人がなんて言うかはわからないけれども、前田塁は文芸批評よりもこういった路線の書き物のほうが優れていると思う。「人間と速度」の連載のほうもいつかまとめて読まないと。

*1:ところでこのブログにこのようにして書籍に載った論考のしかも一部を引用することって、まさしく情報の断片化/データベースへの投入だ