決断としての愛

僕が昨日の飲み会でちらっと言ったことを思想地図の宮台真司×東浩紀対談で印象深かった部分を引用して補足しておく

宮台:……合理的に考えれば、目の前にいる相手よりももっと良い相手がいるに決まっていて、必然性を信じるということにムリがあります。ところが、このことに固執すると「ホームベース」は絶対につくれません。「ホームベース」をつくるということは、偶発性に抗って、簡単に言えば、「決断」することと同義です。……(中略)
東:人生の必然性は自らつくっていくものであって、そのためにはどこかで必然性に囚われない決断を下すしかない。

ひとを愛するのには決断が必要である、ということ。決断とは計算を、必然性を、合理性を「超えて」下されるものだ。このことを指してデリダは「決断とは狂気の瞬間である」と言ったわけで、だから愛とは(「もしそのようなものがあるならば」)そもそも狂気なのだ。「私はあなたを愛している」というとき、私は狂人なのであって、そしてその狂人の決断によって愛は確かに(また、不確かに、不確かであるがゆえに常に決断を要求するものとして)存在する。


法の力 (叢書・ウニベルシタス)

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