ジャック・デリダ『歓待について』

本書は96年におこなわれたデリダセミネールの一部の講義「異邦人の問い:異邦人から来た問い」と、「歓待の歩み=歓待はない」をそのまま採録したものに、セミネールに出席していたアンヌ・デュフールマンテルによる序文「招待」を加えたものの翻訳。訳者あとがきが解説的な役割をうまく果たしているし、デリダのものの中では割とわかりやすい。『友愛のポリティクス』を読む上で助けになると思う。
「異邦人の問い:異邦人から来た問い」では、「異邦人」と「まったき他者」、「歓待の倫理」と「絶対的歓待」の違いについて語られている。

異邦人と絶対的他者の差異、その微妙な差異のひとつは、絶対的他者は名前もファミリーネームも持てない、という点にあります。私が提供しようとする絶対的ないし無条件の歓待は、通常の意味での歓待、条件付きの歓待、歓待の権利や契約などと手を切ることを前提としています。(中略)
・・・・・・絶対的な歓待のためには、私は私の我が家を開き、(ファミリーネームや異邦人としての社会的地位を持った)異邦人に対してだけではなく、絶対的な他者、知られざる匿名の他者に対しても贈与しなくてはなりません。そして、場(=機縁)を与え、来させ、到来させ、私が提供する場において場を持つがままにしてやらなければならないのです。彼に対して相互性(盟約への参加)などを要求してはならず、名前さえ尋ねてもいけません。絶対的な歓待のおきては、法的な=権利上の歓待、つまり権利としての掟や正義から手を切ることを命じます。正義の歓待は、法的な=権利上の歓待と手を切るのです。といっても、それは法的な、権利上の歓待を非難したり、それと対立するものではなく、反対にそれを絶え間ない進歩の運動の中に置き、そこにとどまらせることができるのです。絶対的な歓待は法的な=権利上の歓待と奇妙にも異質なのです。それは、正義が法=権利に対して異質であるのと同様です。正義は法=権利とごく近くにあり、実は不可分だというのに。
(「異邦人の問い:異邦人から来た問い」)

訳者によればこういうこと↓

・・・・・・一方には、異邦人を無条件に受け入れる「絶対的」で無条件の歓待がある*1。これは、異邦人のアイデンティティを問いたださず固有名を聞くこともせず、いかなる代償を求めずに迎え入れるものである。他方には、条件的な歓待、すなわちアイデンティティや名前を確認したうえで、その義務と権利をさだめる計算可能な歓待がある。(中略)
だがデリダは、この二つの歓待が根本的に異質であると同時に、相互に含み合い、呼び求め合ってもいることを強調する。言い換えるならば、絶対的で普遍的な歓待は、つねに条件的な歓待にむしばまれ、侵食されている。・・・・・・それは不可能な歓待であり、「アポリア」なのだ。(中略)
・・・・・・デリダの課題は、こうした歓待の二重性を、カント的な二律背反(アンチノミー)として放置することにあるのでも、弁証法的に統合することにあるのでもない。そうではなく、この「アポリア」の場を「非受動的なかたちで堪え忍ぶ」ことによって、不可能性のただ中に、「決定」と「責任」の可能性を見出し、もろもろの具体的な法の進歩の可能性をさぐることにある。この不可能性の可能性を通過することによってのみ、法を通して、そして法の彼方に、歓待の正義の可能性が垣間みられるのだ。
不可能なものは場をもたなければならない、「まさにこの瞬間に」。もちろんこの「瞬間」は同時性なき瞬間、不可能な共時の一瞬であり、不可能なものはけっして現前しない。しかしこの「アポリアの経験」を経ることによってのみ、予測不可能で計算不可能な到来者(l'arrivant)に対する扉がふと開かれ、国境という分割不可能な境界も、その内側からほつれていくかもしれない。
(「訳者あとがき」)

歓待について―パリのゼミナールの記録

歓待について―パリのゼミナールの記録

*1:ここで「異邦人を」と言ってしまっているのはちょっと問題があるのではないかと思う。というのは「異邦人」は既に「主にとっての異邦人」であり絶対的他者ではないわけだから。他者の方へ/他者の方から、考えていかなければならないのだから。