やったった

今日は目黒のマックへ行って卒論執筆。実はここ一週間ほど逃げたり遊んだりで全く進んでいなかったのだが、今日やっと進行。それで事後的に気づいたのだが、今日書いたところが一番のヤマ場であり難所なのだった。だから書けなかったのだ。自分が腐れただだけ者なばかりに書けないのだと思い密かに良心の呵責に苦しんでいたのだがそうではなかったのだ。僕が悪いのではなかったのだ。やったぁ。やったぁ。
結局マックには8時間くらいいたのだが、4時間くらいなんにもしないで座っているお年寄りがいたり、深夜になると客のほとんどがおそらくホームレスであろう方に占められていたりと、いろいろ気になった。うーむ。と思いながらも卒論に集中。
ところで今日はセンター試験だそうで、twitterにはセンター関連のつぶやきが多く、携帯からTLを見ながら、受験生のときの記憶が懐かしく思い出された。考えたらもう4年も前なのか。センターの思い出と言えば、僕はセンター世界史が自己採点によると58点で、全国平均以下だった。そして世界史関連でもうひとつ思い出したのは、僕は現在通っているH大学の一校しか受けていないのだけど、唯一受けた模試である駿台H大模試での世界史の偏差値は33だった。そんなんでよく国立大学のしかも社会学部に受かったものだ。不思議である。

駄目やった

家では卒論に集中ができないという厳然たる事実にようやく向き合い、どっか外のPCの電源があるところで書こうと思い立ち都立中央図書館へ。しかしあえなく休館日*1。電源がありかつ喫煙可なカフェを求めて放浪。世の中には便利なサービスがあるもので、yahoo!モバイルとかから「電源 カフェ」とかで検索すると、電源があるカフェまとめサイトがいくつも出てくるのだった。それらの情報を頼りにうろうろするも、禁煙だったりものすごい混んでたりで、結局1時間くらいの遭難の末、道玄坂ロッテリアに漂着し、いざ卒論、と思ったところにtwitterのつぶやきを見た友人があそびに来て歓談せり。彼が今度書くらしいアイドル論とかの話*2。そしてリア充は絶対に許さない。絶対にだ!みたいな話をしていたら一日が終わり、嗚呼…と嗚咽したのち諦念を抱いてゲーセンへ。いくつかクソゲーをたしなみ、最後に渋谷109−2の地下に存在しているハロプロの写真を売ってる店に連行される。渋谷の中心にこんなものが存在していたなんて知らんかったあ。そして僕のアイドルの見立ては全然センスがないことが判明。アイドルファンの心理が全くわかってないことが明らかになったのが収穫。しかし結局卒論はできなかったのであった。無念。明日はトリチューで頑張ります。

*1:これは僕に詳しいひと(俺マニア)にはよく知られていることだが、僕が目的をもってどこかにでかけると、その目的の場所が休みである確率が異常に高い。最近では僕が「〜〜行こうぜ」と提案すると、相手の方で休みではないかを確認してくれるようになっているため、ほぼ出かけなくて済んでいる。

*2:「偶像を売ること/買うことの倫理」を提案したがアイドルオタク全否定につながってしまいそうなので却下。「ヴァーチャル・アイドルの不可能性について」に落ち着いたようだ。

What's the harm?

ジェンダー系の授業で、ゲスト・スピーカーとして来てくださったゲイのアメリカ人Douglasさんのお話を聴く。
Mr.Douglasは米のIT系企業の六本木にある日本支社で働いている。生まれはBostonで、4年ほど日本で働いており、日本人の男性ともう19年間も良好なパートナーであり続けているのだそうだ(授業にはパートナーの方もいらっしゃっていた)。見た目や物腰にはまったく「ゲイっぽい」ところはなく、いかにも「できるアメリカ人ビジネスマン」然としておられ、また、ユーモラスで爽やかな感じのよい方だった。
今では自分がゲイであるということを、とても自然なこととして受け入れられているし、それで悩んだりはされないそうだが、しかし若い頃は大いに悩み、また苦しみ、「恥ずかしい」とか「家族に申し訳ない」と悩み、神様に毎晩「連れていってくれる」ことを祈っていた時期もあったそうだ。友人や家族にCome Outしたときの不安など、ゲイであるが故に苦しまなければならなかったことについて、聞かせていただいた。にこやかに、またユーモアを交えながらの語りではあったのだが、やはり当事者がその体験を生で語るというのは、本やTV、映画で同じような体験を見知ってはいても、どこかずしりとした重さがある。何度か涙が出そうになった。
また、アメリカでの体験の他に、現在の日本での暮らしについて彼が感じていることについても語ってくれた。やはり、ゲイとして生きるにはアメリカのほうがずっと楽なのだそうだ。「日本人はまるでゲイが存在していないかのように思っているひとたちが多い」と仰っていた。日本人はゲイと接することに慣れておらず、ゲイだということを明かすと戸惑わせてしまったり、困らせてしまったりするので、明かすことができないことがしばしばだとか。Douglasさんの務める会社でも、Bostonの本社では、彼がゲイであることを会社の全員が知っており、それで問題が起きることなど全くないが、日本の支社では、混乱するひとがいて業務に支障が出るかもという恐れがあって同僚全員に明かすということはできていないそうだ。
Douglasさんの話はどれもとても印象的だったのだが、特に強く印象に残っており、また彼自身も強調していたのは、以下の3つ。

  • さまざまなsexual orientationを持つひとがいるというのは、世の中には右利きのひともいれば左利きのひともいるというのと同じで、まったく自然なこと。左利きであることの何がいけないというのか?世の中に左利きのひとがいるということの、何がいけないというのか?
  • 自分がゲイであることを話すと、多くのひとが「ゲイと会ったのは初めてだ」と言う。しかし絶対にそんなことはないと思う。あなたの友人、知人の中に、必ずゲイはいるはずで、あなたにゲイであることを明かしていないだけだ。
  • 必ずしもゲイをhateしていないひとでも、ゲイを冗談やからかいのネタにしたりすることはよくあることだ。しかし、そういった「小さな差別」が、積もり積もってgay bashingを許容する空気につながったりと、minorityにとって生きづらい世の中を作り上げてしまうのだということをよく考えて欲しい。

特に3つめに関しては、身につまされる言葉であった。おそらく誰の中にもあるだろう「これくらいなら許されるはず」という卑小な悪が、積み重なって巨大な悪を生んでしまう。恐ろしいことだと思うし、気をつけなければと思う。
Douglasさんは最後に仰っていた。「友人や知人がゲイであることを明かしてきたら、混乱したり、恐怖したりせず、どうかsupportiveになってあげて欲しい。ゲイであるということを明かすというのは、そのひとがあなたのことをとても信頼しているということなのだから。」
ぜひそうありたいものだと思う。

円城塔「後藤さんのこと」

後藤さんのこと (想像力の文学)
表題作「後藤さんのこと」をはじめ、「ガベージコレクション」や「墓標天球」など6編からなる短編集。
卒論の息抜きに、と買ったのだが、「息抜き」に円城塔を読もうというのはあまり理性的な判断だとは言えないということに読み出してから気づいた。読みにくいのだ。リーダビリティがかなり低い。読むのに頭を使う。読んでいて疲れる。そのことは、文芸誌や思想地図で読んでいたのだから知っていたのに忘れていた。「デリダの息抜きにラカンでも読もうかな」とか言ってるのとおんなじようなものだ。もしそんなやつを見かけたら全力で止める。それが倫理というものだからだ。だがもう買ってしまったものは仕方ないので頑張って読む。読みにくい。
しかしその「読みにくさ」こそがいくつかの短編では面白さの中核をなしている。自己に言及し、そして読者に言及し、絶えずオブジェクトとメタを混ぜっ返すことでそのどちらともつかないところに自らを、そして読者を置いている。その複雑な構造、意味不明に論理的な文体によって負荷がかかりしびれた頭で読み進めていくテクストは、読者の目の前で変質し、瓦解し、消失し、そして再出現し、再構成し、昇華する。これこそが円城マジックとでも言うべきものであり、円城塔が大勢とはいえないとはいえ(読者を選ぶテクストなのだから仕方ない)熱心な読者を獲得できていることの大きな理由だろう。
「後藤さんのこと」は収録されている6編の中では「読みやすいほう」に属する短編なのだが、やはり「仕掛け」はあって、僕は久しぶりにゲシュタルト崩壊を体験した。やっぱり円城塔は素晴らしい。*1

*1:しかし現在も頭がしびれたようになっていて息抜きのはずが卒論ができなくなっているのには困ったもんだ

規律訓練から自己啓発へ

監禁の環境は危機にある、とドゥルーズは書いた。規律訓練の弱体化。
しかし規律訓練されることはさまざまな水準のさまざまな意味で必要である。
誰も規律訓練してくれないのならば、自分でするしかない⇒一億総自己啓発化。
監視者の視線を呼び出し、規律、規範を参照する「従順な身体」から、データベースを参照し再帰的に自己選択していく主体へ。
訓練により植え付けられた「従順な自発性」から、「自発的な従順な自発性」へ。
今日、本当は我々はいったい何に従順であるのか?経済合理性?あるいは「幸福」?
それは我々自身で考えねばならない。フーコードゥルーズももういないのだから。彼らは彼らの仕事を果たして退場して行ったのだから。

私たちはいつも締め切りに追われているブルー

[論文]松尾豊「なぜ私たちはいつも締め切りに追われるのか」

[SUMMARY]
研究者はいつも締め切りに追われている。余裕をもって早くやらないといけないのは分かっている。毎回反省するのに、今回もまた締め切りぎりぎりになる。
なぜできないのだろうか?我々はあほなのだろうか?
本論文では、研究者の創造的なタスクにとって、締め切りが重要な要素となっていることを、リソース配分のモデルを使って説明する。まず、効率的なタスク遂行と精神的なゆとりのために必要なネルー値を提案した後、リソース配分のモデルの説明を行なう。評価実験について説明し、今後の課題を述べる。

研究者は、やらなくてはと思っているタスクの締め切りが迫ってきて、あーもう間に合わないかもしれないと思いながら、頑張ってなんとか間に合うという経験をすることも多いだろう。これは、このモデルによれば、時間がなくなる→集中力を上げる→仕事の効率が意外に上がるというプロセスによって成り立っているわけである。
そして、それは、研究(執筆やアイディア出し)というタスクの性質に依存している。もし集中力を上げても仕事の効率があまり上がらないようなタスクであれば、間に合わないものはどうあがいても間に合わないわけであるから、我々は「計画をたてて余裕をもってやる」というのを学習するしかないはずである。研究者がこれを学習できないのは、それで何とかなるから学習する必要がないのである。

そう考えると、創造的な仕事において、締め切りに間に合うかどうかの成否を握るのは、[仕事の量]を正しく見積もれるか、[必要とされる集中力/効率]が上限に達しないゆとりを持って限界追い込まれ時間に至るかである。この見積もりを正しく行なうことが、締め切り直前に仕上げられるかの鍵を握る。
現実には、次のような行動もあるかもしれない。

  • [締切までの時間]を増加させる(締め切りを破る/締め切りが延びる/仕事時間を延ばす)
  • [リソース]を増加させる(無理をする)
  • [集中力の限界]を増加させる(追い込まれてスーパーサイヤ人となる

(強調はいずれも引用者)

卒論執筆にあたって非常に興味深い、また有用な知見が得られた。
気になったのは、サマリーに「われわれ(研究者)はあほなのだろうか?」という問いが掲げられているが、論文のなかでこの問いに対しては少なくとも明確には答えが提出されていないということである。ぜひ、次の論文では、この問題に取り組んでもらいたい*1

*1:ただ、私個人としては「研究者はみんなあほなのかもしれない」という印象を受けた。明確には示されていないが、これが松尾氏の見解であると見ていいのかもしれない。

謹賀新年

遅くなりましたがあけましておめでとうございます。
インフルエンザにかかったりしていましたがなんとか元気です。
インフルエンザのため初詣にも親戚参りにも行けず、またそれ以外にも卒論を書くために家にこもっているので特に書くことがありません。短歌も思いつかないし。
大掃除をしていたら書道セットが出てきたので高校の美術の時間以来、5年ぶりくらいに毛筆で字を書いてみたら意外とうまく書けて嬉しかったです。やはり落ち着きが重要なのかしらん。ちなみに書いたのは「雪月花」「規律訓練」*1
今年は自分を規律化するのが目標です。がんばるぞっ

*1:僕のふだんの字を知っているひとには信じられないだろうが、僕は毛筆はまあまあうまいのです